きみは戦士なのだよ、クラリス。敵は死に、赤子は救われた。きみは戦士だ。
             
「ハンニバル」 トマス・ハリス(高見浩訳) 新潮文庫

 「羊たちの沈黙」から七年。FBI特別捜査官となったクラリス・スターリングは彼女を陥れようという政治的な謀略等もあり、窮地に立たされる。そこに届いたしなやかな手書きの文字は、ハンニバル・レクター博士、かの人食い博士から送られてきたものだった。レクター博士はどこにいるのか。追い求めるのはFBI、そしてかつてレクターによって自分の身体をずたずたにされた実業家、メイスン。レクター博士への残虐な復讐劇を企むメイスンより先に、彼を逮捕したいと願うクラリスだが、彼女を追いつめる罠もまた思いもかけないほど周到に用意されていた――
 映画化もされ、ご存知の人も多いと思われる「ハンニバル」。ということで、実は書くべきことはあまりない。と思っていままでオススメ文を書かなかったのだが……実は「香水」を読んでいて、その中の主人公、グルヌイユの「匂いの王国」と、ハンニバル・レクター博士の「記憶の宮殿」との関連を思いついたら楽しくなってしまい、思わずじっくり再読してしまった。
 「香水」の主人公は、匂いに良し悪しをつけず、とにかくすべてのにおいを嗅ぎわける。レクター博士、彼には厳然たるスタイルがあるのでよいものにこだわるが、その中でも匂いは特別だ。他者の情欲にも似た体臭に耐え切れず、お気に入りの香水を染み込ませたハンカチで鼻をおさえたりするレクターは、こんなことも思う。

 自分は両手や両腕、両の頬で、周囲に満ちていそして、嗅覚は他のどの感覚にも増してやすやすと過去の記憶をよみがえらせ得る香りをかぐことができるという幻想に、レクター博士はときに浸ることがある。そう、自分は顔と心で香りをかげるのだという幻想に。

 
 外見や考え方、感じ方は違うだろう。だが彼らはともに記憶の中に王国(宮殿)を持ち、ときにそこに逃げ込み、ときにそこに楽しく暮らし、もちろんその中にあるものを自分のために大いに利用する。そんな彼らに――恐るべき連続殺人犯である彼らに――ある意味での精神の豊かさを感じてしまうのは誤りだろうか。
 というわけで、「ハンニバル」はたんなる連続殺人犯を追うミステリーというよりは、連続殺人犯であるレクター博士の内面世界を多く描き出しているところが秀逸である。映画よりは断然こちらのほうがよいので、ぜひ一度読んでもらいたい。



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