ただひとつだけ、その唯一無二の香水だけが、地上を芳香あふれた楽園に変えることができるだろう。そのとき初めて、この世は生きるに値する。
                   
「香水」 パトリック・ジュースキント(池内紀訳) 文春文庫

 十八世紀、フランス。町はどこも、現代の私たちにはおよそ想像もつかないほどの悪臭に満ちていた。腐りかけた木の階段、鼠の糞、腐った野菜と羊の油、汗にまみれたシーツ、室内便器から立ちのぼる甘ずっぱい臭い。人々は汗と不潔な衣服に包まれ、口臭は玉ねぎのにおいがした。据えたミルクと腐乱した腫れ物の臭いのする老いた体。悪臭の点では王と獣とがさして変わらぬ、そんな時代に、ひとりの男が誕生する。いっさいの体臭を持たず、しかし赤子のときから周囲の臭いに敏感だった彼は、のちにグルヌイユと名づけられ、孤独な毒虫のように生にしがみついた人生の中で成長する。――彼は、天才だった。
 においと関係のない言葉や物事をおぼえることには時間がかかった。だが、彼に嗅ぎわけられぬにおいは存在せず、彼の頭の中では数多の香りの組み合わせがつきることなく存在した。選り好みはせず、想像の中の匂いの工房で、たえず新しい匂いの組み合わせては楽しんでいた彼は、長じて後、香水調合師としてパリ中を陶然とさせる。だが、パリにいたままでは己の中にある香りを作り出すことができない、たかだが数種の香油を作り出せないことに絶望した彼は、南方、グラースの町へと向かう。そして、彼が己のすべてをかけて取り組んだ香水とは、美しい処女の香り。あるひとりの女性の香りを中心とした最高の香水を作るために、彼は数多の女性を手にかけてゆく――
 このような作品に出会えたときの喜びを知っているからこそ、本を読むことがやめられないのだと思う。ページを繰ることさえがもどかしく、読み終えることも惜しいと思えるほど、陶然と酔わせてくれる本である。
 特に――U部がよい。パリからグラースに向かう孤独な旅の途中、グルヌイユはそれまで漠然と感じていた人間の体臭への嫌悪感を強く感じ、まったく人のいない、絶望的なまでに(一般人にとっては)孤独な環境での生活を選択する。だが、そこではグルヌイユは彼の匂いの王国の王であり、思うままに想像の中の匂いを味わい、楽しむことができるのだ。その描写のいかにいきいきとし、美しく、そして凄絶なまでに醜悪なことか。七年、そのようにして過ごし、そこで初めて、グルヌイユは己の特異な体質に気づくのである。どんな匂いでもかぎわけることのできる男が、己自身に体臭というものがまったくないことに気づいたときの気持ちとはいかなるものか。彼が「体臭」といったものに拘っていく最初の兆候である。
 が、ともあれ――くだくだしいことはいわない。とにかく、読んでほしい。自信をもってオススメする一冊である。



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