8.動物言語論

サクラにお尻を嗅がれるダニエル

 トマトのことを犬語でなんと言うかは知らないがダニエル(アクセントはエ)とナタリーには日本語の「トマト」で通じるようである。「トマト」が日本語かどうかに関しては、ここで下手なことを書いて国際紛争の火種になり戦争でも勃発したら大変なので言明を避けたい。俺の家庭ではダニエルたちの大好物である「トマト」という名前をうかつに口にできなくなってしまい、トマトのことは「赤いの」と言うことになっている。

 彼女たちが理解できる人間の言葉としては他に「ごはん」、「散歩」、「ジャーキー」、「(鶏の)軟骨」、「ボール」、「うんち」、「しっこ」などがある。もちろん2匹はお互いの名前を認識している。さらに「待て」、「座れ」、「座って待て」、「よし」、「よしよし」、「こら」、「何しとんじゃおんどれがぁ!」などの複雑な表現も理解する。理解できない言葉の代表としては「肩をもめ」、「酒を買ってこい」、「口をあけて歩くな」、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」などがある。なんだ、その程度しか理解していないのかと思うかもしれないが、逆に我々人間が理解している犬語はどれほどあるだろうか。

 犬は「わん」、猫は「にゃー」と鳴くものだと思い込んでいる人がよくいるが、そういう人たちは日本の画一的な戦後教育の犠牲者と言っていいだろう。ある日ダニエルが「かうあう。」と吠えた。アクセントは“あ”である。「おい、今のは“わん”の間違いだろう。人間でも言い間違えることはよくあることだ。例えば“ここに訂正しておわびを申し上げます”と言おうと思ったのに“ここに剃毛してあわびを蒸し上げます”と言ってしまうこともある。」とたしなめると「わうい。」と口答えをする。その時の状況から「何だか眠いけど暇なのよ」という意味のことを言いたかったようである。確かに1歳そこそこのナタリーなどは「わん」という教科書どおりの鳴き方しかできない。しかしそれは単に語彙が少ないだけであり、ダニエルぐらいになるとかなり巧妙な鳴き分けをする。ご飯の時間が遅れたりすると“ふぅ〜ん”と媚びたような鳴き方をする。こっちが仕事をしているときは面倒なので聞こえない振りをするのだが、相手も腹が減っていて必死だ。声に絶妙な“かすれ”を混ぜてグーグーガンモのような声色に変化させ、こちらの同情を引こうとする。これは演歌の世界で都はるみなどがよく用いる技巧であり、俺は「犬による都はるみ唱法」という題目で学会に発表しようかと思ったが、どこの学会に発表したらいいのかよくわからなかったのでやめておいた。しかしそのうち北島三郎唱法や水前寺清子唱法、ルイ・アームストロング唱法などをマスターするのは時間の問題だろう。

 人間から犬へ言葉を伝える場合、「こら、いけない。」というのをニュースのアナウンサーのような口調で言ったり、ニコニコと満面の笑みを浮かべて言ってみたりすると、犬たちは怒られているのか褒められているのかよくわからないようである。逆に、「よしよし、いい子だね。」というのを安岡力也氏が電車の中で足を踏まれたときのような口調で言ってみると2匹とも小屋の中にすっ飛んで帰って行ってしまった。つまり犬たちは人間の言葉だけでなく、顔の表情やアドレナリンの分泌量も参照してそのときの状況判断をおこなっているといえるだろう。

 ここまで人と犬の言語によるコミュニケーションについて論じてきたが、犬同士の場合はどうであろうか。たいがいの犬は外でほかの犬と会ったとき、まずはお尻のあたりの匂いを嗅ぎ合う。どうやら彼らは顔を見ただけでは相手を識別できないらしい。しかし、だからといって犬のコミュニケーションが人間のそれと比べて劣っているとは言い切れない。犬のお尻は人間の顔と同じぐらい雄弁にその犬の個性を語っていると解釈すべきではなかろうか。匂いといっても、排泄物の匂いではなく、尻尾の付け根にある“肛門腺”から分泌される物質で判断を行う。もし人間も犬と同じような体の構造をしていたら我々の挨拶はまったく別のものになっていたはずだ。顔を見合って握手をしながら「ハウ・ドゥー・ユー・ドゥー」と言うかわりに、さりげなく紳士的にお互いのお尻のあたりに鼻を持って行く。これでじゅうぶん相手が特定できるので顔の特徴を覚える必要がない。これはなかなか便利だと思うのだが、現実は人間にそのような能力はなく、しかたなく顔や名前を覚え、それでも物足りないので印鑑や身分証明書などが必要になってくる。しかし世の中は広いので、人間でもおしりのにおいをかいだだけで相手を特定できるマニアックな方もいるかもしれない。一方、明確な言語を持たない犬だが、彼らの一連の行動を人間の言葉に翻訳し、さらに勝手にナレーションを付け加えることによって犬同士がコミュニケーションを行う手順を考察してみることは可能だ。

サブ(仮名)は道の向こうからちょっと自分好みのイカした女が歩いて来るのを見つけた。サブの歩調は徐々に早くなる。女に一歩一歩近付くごとに視覚的にも嗅覚的にも相手の特徴がよくわかってくる。なんと女はつい最近繁殖シーズンを迎えたようである。

「わおーベイビイ、なかなか刺激的な匂いじゃん。」

すれ違いざま、さっそくサブは女の尻尾の下に鼻を突っ込む。と、そこには犬語でメッセージが書いてあるではないか。

「私はダニエルよ。今、シーズンなの。よろしくね。」

ついでに下のほうに小さい字で、アクセントはエよ。なんてことも書いてある。

「けっこうおじさんね。あたしおじさんは好みじゃないのよね。」

サブのおしりを確認したダニエルは故田中角栄氏のようなダミ声で「わん!」(“わ”は濁音)と一喝した。

「ちぇっ、嫌われちまった。まあいいや、ほかの女をさがすか。」

 これでナンパ失敗の一幕は平穏無事に終了するのである。もちろん、コミュニケーションに失敗してけんかになるケースもあり、特にチワワという犬種の喧嘩は“チワワげんか”という専門的な呼び方をすることがある。

 最後に非常に特殊な例を挙げておく。ここに、ナタリーがパソコンのキーボードを叩いた記録が存在する。ある日、まんまとダイニングテーブルの上に上がりこんだナタリーが俺のノートパソコンにタイピングしたものだ。貴重な文献なので心して見ていただきたい。それは、
「くぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
である。この入力の過程を検証するとこうなる。まずキーボードの“K” に右手の肉球が乗り、すぐさま“U”に親指が乗る。その後すかさず左手のおそらくは中指あたりが“X”を押さえたはずだ。再び重心が右手に戻り、その小指が“O”のキーの上にとどまる。
これは実際にキーボードの上に指を乗せてみればなるほど、そういうタイピングになると納得できるだろう。俺がちょっと隣の部屋で仕事をしていた隙に入力されていたこの文を発見したとき、またしても「犬によるブラインドタッチ」と題して学会に発表しようかと妻に相談したら「やめときなさい。」と相手にしてもらえなかった。

2002年4月4日

9.どっちが得?

ナタリー、父親のカムイ(右)と初の2ショット

 ダニエル(アクセントはエ)の誕生日が近づいてきた。俺の誕生日と三日しか違わないので家庭内では兼用で祝ってもらうことが多い。犬と合同でお誕生会というのも複雑な気分だが、ないよりはましだ。5月21日でダニエルは4歳になる。犬を飼い始めて4年が経過したということだ。その間にナタリーも生まれた。ちなみに俺は5月18日で38歳になり、犬と人間の年齢比較表によると二年後にちょうど40歳でダニエルに追いつかれることになっている。そこからあとは追い越されるのだ。この比較表にどのような根拠があるのか疑わしいものだが、たった4年前に生まれた犬畜生に年齢を追い越されるというのも複雑な気分である。この調子で木村拓也やモーニング娘なども追い越して行ってくれれば悪い気分はしないのだが。

 4年間犬を飼ってきて、果たして俺と犬のどちらが得をしているのだろうと思うことがある。そこで、ダニエルとナタリーにアンケートを実施した結果、犬が得している点として次の項目が挙げられた(複数回答可)。
1. ご飯を食べさせてもらえる(回答数;2)
2. 寝る場所を与えてもらえる(回答数;2)
3. 運がよければ遊んでもらえる(回答数;2)
4. さらに運がよければトマトがもらえる(回答数;2)
5. 散歩に連れて行ってもらえる(回答数;1)
6. 散歩から連れて帰ってもらえる(回答数;1)

これに対して俺が得している点としては
1. 暇つぶしになる
2. 遅刻の言い訳になる
3. 連載のネタにできる

 まあざっと、こんなもんだ。犬側に関してはわざわざ説明するまでもないだろう。寝る場所に至っては17万円もしたマッサージチェアを2匹で独占されていて、それだけでも俺がえらい損をしているような気がする。この機会に自分が得している点を明確に検証しておかなければ不公平感が拭い去れないというものだ。

 最初は“1.暇つぶしになる”に関してである。動物を使って暇をつぶすには動物実験を行うのが一番だ。むろん、ダニエルはミニチュアダックスフント(実験用)として売られていたわけではないが、金で買われた身であることには変わりない。その上、ただでご飯を食べさせてやっているのだからどんな動物実験に使おうと俺の勝手だ。ナタリーに至っては俺が生産した犬であり、俺はいわば神のような存在、ゼウスにとって人間が単なる実験動物に過ぎないのと同じである。たとえば、犬というものはボールを投げてやると走って追いかけて咥えて戻ってくる習性を持っている。ダニエルが小さいころ、複数のボールを投げるとどうするかと思い、一度にボールを三個投げてみたことがある。三つのボールをだいたい同じ方向に投げてやると、とりあえず走って追いかけるが現場で3つのボールを一箇所に集めて一度に持って来ようとする。一つを口に咥えて後の二つを前足で転がしながら運ぶつもりらしいが、当然うまくいかない。だいたい一度に二つ以上のことをやることなど無理な話で、俺でも仕事は一日に一つで精いっぱいだ。例えば先日の仕事はスーパーに牛乳を買いに行くという仕事だった。これにしてもなかなか片手間でできることではない。数あるスーパーの中でどの店に行くか、店には右足からか入るべきか左足から入るべきか、牛乳は2本買うと安くなるが鮮度のことを考えると1本にしておくべきか、お釣りで競馬新聞を買ってきたら妻に怒られるだろうか、長い目で見ると牛乳より乳牛を買ってきたほうが割安ではないか、などなどである。牛乳の場合は無事買うことができれば歌でも歌いながら家に帰ってくればいいのだが、卵のときは買った後のほうが大変だ。袋に卵が入っていることを忘れてガードレールにぶつけて割ってしまったりしたら俺だけ卵抜きのオムレツを食べなければいけなくなる。その事態だけは避けたいので「たまごたまごたまご…」と言い続けながら帰ることにしているのだが、あまりの緊張感に途中で一泊して温泉にでも浸かってリラックスして帰りたいほどである。ダニエルが一度にボールを3つ運ぼうとするのは、牛乳と卵を同時に買いに行って帰りに郵便局で年金を払い込んで帰ってくるようなもので、標準的な能力を持つ普通の人間なら必ずどれかひとつ忘れる。三個のボールをそれぞれ別の方向に投げた場合は、まずひとつ咥えて戻ってくるまではいいが、それをそのまま咥えて2個目を取りに行こうとする。その2個を3個目のところまで運んで行こうとしてやはり手詰まりになる。恐るべき低能である。

 妻は仕事の都合で年に2回は一週間ほどの出張に出る。普通の亭主族ならわが世の春を謳歌する絶好の機会となろうが、俺の場合は単純に家事労働が増えるだけで面白くもなんともない。先日も妻が関西中国九州地方10日間の出張に出た。必然的に掃除洗濯炊事、犬のご飯、散歩、トイレ掃除を一人で受け持つことになり、またまたえらい損をしてるような気がしてならない。ここはやはり動物実験だ。妻が出張先からかけてきた電話をスピーカフォンに切り替えてみる。電話から妻の声が聞こえたとたん、2匹がそろって首を思いっきり持ち上げて周囲をきょろきょろ見廻す。そこに妻の姿がないのを確認すると今度はしきりに首を左右にかしげて考えているような動作をしている。考えてもわかるはずがない。人間でもいかにも考えているような素振りをしている人に限ってたいしたことを考えていないものだ。なぜ妻がいないのに声が聞こえるかを説明してやることにはやぶさかでないが、「電話は昔々アメリカのジュワキという人によって発明され、1890年に宇多田ひかるという人によって初めて日本に導入された。そしてその後何十年も経ってドコモという人が携帯電話というものを発明して…」などと語り始めた途端に2匹の頭からぽわ〜っと煙が出てくるのがオチだ。考えあぐねたナタリー、“うわん!”と吠えてしまうありさまだ。人間でも無能なやつほど困ったときに吼える。

 動物実験に関してはその他にもいろいろやって暇をつぶしているが、そろそろ次の“2.遅刻の言い訳になる”に移ろう。といっても、俺はめったに遅刻をしない。責任ある社会人としては当然のことだ。俺が到着した時刻が集合時間だと思っている。それでも弘法も筆の誤り、イチローも盗塁失敗というわけで過去に何度か、たとえばマンションの戸口に雪が4メートル積もったときや、駅前でウイッキーさんにカツ上げされたときや、東京湾にゴジラが上陸して道路が渋滞していたときなどに仕事に遅れてしまったことはある。このようなことは不可抗力であり、ちゃんと説明すればわかってもらえるはずなのに誰も信じてくれない。そういうときこそダニエルたちの出番だ。「ダニエルが太り過ぎて出口を塞いでいた」とか、「うちの犬が歩いていて棒に当たってしまい全治2ヶ月の重傷を負った」とか、「桃太郎がナタリーをスカウトに来た」とか、「犬たちが軍事クーデターを起こして俺は両手両足を縛られて猿ぐつわをはめられていた」など、いくらでも言い訳に使えて便利である。

 “3.連載のネタにできる”に関しては、確かにやつらをネタにしてこれまでこの連載を続けてきた。しかしそれは2匹がネタにされるような不始末を繰り返すからだ。単なるネタではなく、告発なのである。模範的な犬として日々を送ってくれていれば、なにもこのような連載を書いて身内の恥をさらすようなことはしなくてもよかったのだ。確かにダニエルはミニチュアダックスフント(模範生)として売られていたわけではないが、逆に(お徳用)とか、(見切り品)とはどこにも書いていなかったはずだ。それに、仮にやつらをネタにして本を出版したとしても直木賞や芥川賞の候補にも挙がらないことは明白であり、何か賞をもらえるとしたら自分で自分に直樹賞を与えるか茶川さんという人が偶然気に入ってくれて、茶川賞を頂くのが関の山だ。ろくなネタではない。いろいろ考えてみて、やっぱり俺は損をしているようだと思いつつ出張帰りの疲れた妻に「寝た?」とベッドの中で尋ねたら、「………ネタ…」と答えた。


2002年5月7日

10.午後のひととき(冠者たちの野望)

「ネタに困ってるね。」
「困ってるようね。」
「だいたい、私たちにしゃべらせるときは書くことがなくて困ってるんだよね。」
「日ごろの行動に気をつけるんだよ。下手なことをしてネタにされてはインターネットを通じて世界中の笑いものだからね。」
「そんなにたくさんの人は見てないと思うよ。アクセス・カウンターを見た限りでは。」
「でもね、前にネタにされたレトリバーを2頭飼っていたお姉さんは見てるらしいよ。」
「そういえば、前はおばさんと書いてたのにね。」
「現金なものよ。調子がいいんだから。」

「こらー、何をごちゃごちゃしゃべってるんだ。俺がネタに困ってるだと?そんなことがあるわけないだろう。俺の頭の中にはお前らのネタがボウフラのごとく湧いてるんだ。よけいなことをしゃべってないで犬なら犬らしく留守番でもしていろ、俺はこれから仕事に行ってくるからな。」
「どうしてそんな乱暴な言い方しかできないのよ。いつも私たちのあることないこと書いて、あなたなんて嘘つきよ、詐欺師よ。」
「ああ、上等じゃないか。読んでる人も半分は嘘だと思って読んでるんだ。それに詐欺師にだまされたんだったら、うさぎや鍋敷きにだまされたよりもあきらめがつくだろう。」
「そうやっていつも変な理屈でごまかそうとしないで。書かれる私たちのことをちょっとでも考えたことあるの?散歩に行っても、いつもほかの奥さんたちに噂されているようでもう行きたくないわ。」
「やかましい、くそ面白くもない。帰りは遅くなる。」
「気楽なお仕事よね、ラッパ1本持って。どうせ飲んでくるんでしょう。」
「そんなのは俺の勝手だろう、おまえらはちゃんと留守番してればいいんだ。」

「出かけちゃったよ。」
「ぜんぶ図星なのよ。本当のことを言われるとすぐああやって怒るんだから。」
「母ちゃんもよくあんなひとと長年付き合ってるね。」
「しょうがないじゃない、この歳で引き取ってくれる人なんかいやしないし、いまさらノラになるわけにもいかないでしょう。」
「ノラっておいしいの?」
「食べ物じゃないの。それにあのひと、強がっていてもほんとはあたしがいなけりゃなんにもできないのよ。」
「そうかあ、とりあえずごはんはくれるしね。」
「さ、まあ一杯やろうかしら。」
「ねえ、あたしももう1歳を過ぎたんだから飲んでもいいよね?」
「そうね、人間だともう成人の歳だものね。ほら、あそこにあのひとの一升瓶があるから持っておいで。」
「いつものやつだよね。」
「ぺろぺろぺろ。わん、これはおいしい、さあ、舐めてごらん。」
「ぺろぺろぺろ。ほんとだ、甘くておいしいわ。わん。」
「そうだ、テレビでもつけましょう。机の上のリモコン取っておいで。」
「サッカーやってるよ。FIFAワールドカップ、略してFカップかあ。」
「変な略し方しなくてよろしい。まったく、あのひとの悪い影響だわ。ところで干物でもなかったかしらねえ、ちょっと探してみるわ。」

「なにが詐欺師だ、てめえらの親戚のきつねやたぬきのほうがよっぽど詐欺師だろう。気楽なお仕事だと?気楽なわけがあるもんか。スタジオに入っても譜面とにらめっこ… !あ、譜面忘れた。奴らが変な言いがかりをつけるもんだから肝心の譜面を忘れてきたじゃないか。しょうがない、取りに帰るか。こういうときに電話して持ってきてくれればいいんだが、まったく役立たずの畜生どもめ。」

「あったわ、かわはぎのみりん干し。これ甘くておいしいの。ぺろっ。」
「わん!わんわんわんわん。」
「どうしたの?」
「あのひとが帰ってきたよ。」
「なんですって?いけない、早くお酒を隠して。」
「お前ら何やってんだ?それは俺の酒だろう。ああっ!みりん干しも。ふざけんな!俺は仕事に行ってんだぞ。俺が仕事をするからおまえらがごはんを食べられるんだろうが。俺がラッパを吹くのは生産活動なんだ。それに引き換えお前らが生産するのはせいぜいウンチと毛玉ぐらいだろう。悔しかったら勉強して介護犬の資格でも取ってきて俺に楽させろってんだ。それを昼間っから飲んだくれやがって。しかもそれは俺の酒だぞ。ダニエル(アクセントはエ)!おまえが母親のくせにしっかりしないからいけないんだ。そっちがその気なら、そうだ、リードで繋いでやる。それをここの椅子にくくりつけて、いや待てよ、椅子だと動くからな。机にしておいて、そうだ、両手両足も縛っておこう。これでどうだ、もう動けないだろう。じゃあ行って来るからな。俺の酒を飲むんじゃないぞ。俺のだぞ。」


「また行っちゃったね。」
「もう夜中まで帰って来ないだろうさ。」
「言いたいこと言ってたね。」
「まったく、酒がまずくなるってもんだよ。」
「でもこの状態じゃ、もう飲めないかなあ。」
「せっかくいい気分なんだから、簡単にあきらめるわけにはいかないさ。」
「どうするの?」
「ナタリー、あの一升瓶まで手が届くかい?」
「ううん…届きそうにもない。」
「じゃあ、そこにあるあのひとのギターには?」
「これは届くよ。」
「よし。じゃあ、そのギターを一升瓶の向こう側に倒してごらん。いいかい、こっち側じゃだめだよ、向こう側にね。」
「えい!こんな感じかな。」
「うまいうまい。それでギターのボディーを向こうに押すんだ。そうそう、もっと押して。もっと、もっと。ほら、ギターが回転して一升瓶がこちらに倒れただろう。」
「うわあ、お酒が床にいっぱいこぼれてる。」
「さあ、心置きなく舐めましょ。」
「ぺろっ、ぺろっ、ぺろっ、ぺろっ。さてもさても、うまい酒よね、わん。」
「ぺろっ、ぺろっ、ぺろっ、ぺろっ。さてもさても、うまい酒だわ、わん。」
「あれ、なくなっちゃったかなあ。」
「ほら、こうして瓶を傾けるとまだ、あるある。」
「ほんとだ、あるある。」

「ああ飲んだ飲んだ、だいぶメートルが上がっちゃったよ。」
「お前そんな言葉どこで覚えたのさ。あっ、タクシーが停まる音だわ。帰ってきたみたいよ。」
「今日はもうおなかいっぱいだね。」
「そうね。さあ、もう寝た振りしてるのよ。」
「また怒られるかなあ。」
「そうでもなさそうよ。ほら、機嫌いいみたい。」
「お酒飲んで来てるね。」
「あまりかかわらないようにね。急に機嫌が悪くなるといけないから。」
「おうたを歌ってるよ。」
「しっ、聞こえない振りをしてなさい。」
「なにか踊りだしたよ。」
「マンボよ。機嫌がいいときはいつもペレス・プラードで変な踊りを踊っているの。」
「ペレス・プラード?トマトとどっちがおいしいのかなあ。」
「食べ物じゃないの。次はきっとソウルボサノバよ。」
「それ知ってる。オースティン・パワーの曲だね。」
「それが出たらそろそろ終わりよ。」
「ほんとだ、寝ちゃったよ。」
「ちょっと上に乗っかってごらん。」
「ほら、ぜんぜん動かないよ。」
「死んじまったんじゃないだろうね。」
「息はしてる。」
「そう、じゃあ私たちもゆっくり飲みなおすとするかねえ。」

「ぐー、ぐー、ぐー…」

2002年6月17日

11.目方でド〜ン(古い…)

「2匹も犬を飼ってらっしゃると大変でしょう。」
ダニエル(アクセントはエ)とナタリーを連れて散歩をしていると時々声をかけられる。そういう人はたいてい
「イヤー大変なんですよ。」
という答えを期待しているものである。
「もう大変で今度生まれ変わったら絶対に犬は2匹飼わないつもりです。」
などと答えようものなら喜び余ってそのへんの木の上に登ってしまうだろう。逆に、
「全然大変ではありません。あと2、30匹飼うつもりです。」
と答えると、なんとか大変だと言わせたくてムキになるはずだ。
「でも、2匹で吠えるとうるさいでしょう?」
「いや、うちの犬は教育が行き届いているので吠えません。」
そういうときに限ってナタリーが 「わんわんわんわん、わわーん!」
と相手に吠え立てたりする。 「いや、これは歌を、歌を唄っているのです。」
「でも、散歩の時なんか大変でしょう?」
「いや、ほら、散歩の帰りなんかはね、ナタリーは早く家に帰りたくてずっと前の方を歩くじゃないですか、ところがダニエルは散歩でバテてずっと後ろを歩くじゃないですか、でもね、こうやって両手を前後に思いっきり伸ばして歩けばね、ほら、なんとか歩けるので全然大変ではありません。」
「でも、2匹ということは頭が2つ、足が8本、尻尾も2本、目や耳も4つあって大変でしょう?」
「いや、目ヤニや耳アカは犬同士お互いに掃除しているし、暑いときなどは尻尾を振ってくれると扇風機代わりになります。足は元々とても短いので2匹合わせても普通の犬の1匹分もないし、頭は漬物石代わりになるのでとても便利です。」
こう答えると相手は悔しさのあまり歩道の敷石を全部はがして土の中をクロールで泳ぎ去って行くにちがいない。

 だいたい"犬を2匹飼うと大変である"という理論に根拠がないのである。"自分も犬を2匹飼った経験があって大変だった"とか、"息子を二人育てたが二人ともグレて暴力団員になって大変だった"などという実験値に基づいて言っているのならまだわかるが、"犬を2匹飼うと大変だろう"という単なる推測に基づいた価値観を他人から押し付けられる筋合いはない。もし、俺がとても気の弱い人間で、その人の言葉に洗脳されて(ああ、俺は大変だったんだ、俺は不幸者だ)と世を儚んで北朝鮮に亡命してしまったら、残された妻や犬たちの面倒をその人が見てくれるとでもいうのか。

  しかし、このような質問が後を絶たないのが現状なので、この場で明確な回答を出しておくことにする。俺が経験に基づいて導き出した結論は"犬は数にあらず目方なり"というものだ。犬を飼う上での"大変さ"における重要なファクターは"運搬に要する労力"と"飼育コスト"である。それぞれについて検証してみよう。まずは"運搬に要する労力"。犬を運搬するには直接抱きかかえる方法と専用のキャリーを用いる方法の2種類があるが、いずれにしても同じ質量のものを一定距離運ぶための労力は1匹であろうがそれ以上であろうが同じである。2匹を同時に抱くときは後ろ向きに並んで"お座り"するように躾けてあり、あとは後ろから抱き上げればよい。ダニエルがほぼ6Kg、ナタリーが5Kgなので、11Kgの柴犬を1匹抱いて移動する労力と変わりはない。次に、"飼育コスト"。内訳は主として餌代と病院代ということになるが、与える餌の量も各種予防接種の投薬量もだいたい体重に比例しているものだ。つまり、目方が2倍の犬には、ほぼ2倍のコストがかかるということで、これも犬の数には関係ない。人間のように健康保険料や年金や結納金がかかるわけでもない。以上のような理由から、"2匹だから大変だ"という論理を受け入れるわけにはいかないのである。

ダニエルTシャツをつくった(モデル;妻)


 これから犬を飼おうと思ってペットショップに出向く人にとって俺の理論は意外に役立つ。たいがいの人は(犬を一匹買おう)と思ってペットショップを訪れることだろう。しかし、店にはいろいろな子犬がいて、つい目移りしてしまうことがある。そのようなときは
「犬を10Kgほど欲しいのですが。」
と店員に声をかければよい。店員は、
「そうですか。では、この柴犬の仔を4Kgお求めいただければ成長して10Kgの犬になります。あるいは、こちらのパピヨン1Kgとミニチュアダックス2Kgの子犬をそれぞれ育てると、合わせて10Kgほどの成犬になります。」
などと、親切に教えてくれるかもしれない。つまり、選択肢がグンと広がるということだ。また、犬に限らずペットを購入する際にお買い得かどうか迷ったときにも役立つ。時々立ち寄るペットショップで、ある日"ミニブタ"を売っていたことがあった。値段は13万円、体重は30 Kgほどありそうだ。100g当りに換算してみると約433円、スーパーの一般の豚肉のほぼ2倍の値段だが、成長して体重が2倍以上になればお買い得ということができる。ちなみにミニチュアダックスフントの成犬はグラム4,000円前後、築地のマグロ初値並みだが、どうも実感がない。

2002年11月28日