「男子と同じ土俵で勝ち負けを言うのは、やっぱりまちがっているよね。私は私だってことを、見失うのはみっともない……私なりのやり方で、今はここにいるんだし。だから、私が負けたくないのは、女子ってことかもしれないな。私の中の女の子……」
           
「樹上のゆりかご」 萩原規子 理論社

 ページをめくっていくと、目次のとなり、目のつくところにマザーグースが引用してある。
「ハッシャバイ、ベイビイ、樹のてっぺん/風が吹いたら、ゆりかご揺れる/枝が折れたら、ゆりかご落ちる/赤ちゃん、ゆりかご、もろともに」
 
萩原規子というと勾玉シリーズとか、なんとなくファンタジーの印象が強かったのだが、これは純然たる学園ものだ。けれど、ファンタジーではない学園ものなどあるだろうか? 閉ざされた空間の、ごくわずかしか居座ることを許されない不安定で濃密な時間。誰が、何が、風で枝で、ゆりかごで、赤ちゃんなのだろうか。
 主人公の「私」、上田ひろみは「これは王国のかぎ」の、あのひろみだが、この点はあまり気にしなくても大丈夫。進学校の高校二年生、どちらかといえば物静かな女の子だと思われているが、実は自分の考えに頑固なところもあって、ときどき周囲の期待する反応とは別のものを見せたりする。合唱コンクールや演劇祭、体育祭などのイベントと生徒会執行部での男の子たちのやりとり、一番の友人だと思われている中村夢乃や、ふとしたきっかけで知りあった近衛有理とのやりとりなども、高校時代が遠い昔になってしまった人にはセピア色っぽく美しい、だろう。しかし、学校の中には名前のない顔のない何ものかがいる。人を傷つけることも厭わずに、自分の欲望を押し通そうとするのは誰、または何なのか。
 最初に書いたように、純然たる学園ものだ。なのに「六番目の小夜子」よりも「麦の海に沈む果実」を思い出してしまったのは何故だろう。そして、評判高かったこの作品がいまいち自分になじめなかった理由は何だろう。
 おそらく。この物語に完全に入り込めるのは、共学高に通って、高校生の男の子とのやりとりになれているか、女子高生だったとしても、男の子を見るときのベクトルが恋愛するかしないか、ということにあった人であるかと思う(ものすごい反論くらいそうだな)。なんだかんだいって、ひろみは恋愛から身を避けているように思えるけれど、結局はそれを恋愛になるから避けるか、避けないか、という点で考えてばかりいるように見えるからだ。女子校出身者の学園ものはちょっと違う――と、思う。しかし、それがきっと、この作品中における辰高の姿として正しいのだろう。男子中心の伝統は、物語としても女の子メインの話を許さない。それを受容することが、おそらく自分自身の高校時代をそのまま描いたという萩原規子のベースとなっているのだろうから。いろいろ考えるところの多い作品である。とりあえず、知りあいの女子校出身者諸君にはぜひ一読してもらいたい。そして、違和感を感じたものか否か……大いに語りあいたいものである。



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