アンヘルはこのすばらしく満ち足りた、おだやかな時間を大切にとっておくために、よそ者を殺すのは後にすることにした。ぴったりと寄りそう小さな身体を胸に抱き、荒野を歩きながら、この世でかけがえのない何かを成し遂げたという思いをかみしめていた。
            
 「殺人者の涙」 アン=ロール・ボンドゥ(伏見操訳) 小峰書店 

 チリの最南端、荒れ果てた地にひっそりと暮らしていたボロヴェルド一家。ごく稀にやってくるのは天文学者や科学者や詩人や冒険家で、そんな彼らでさえ驚くような孤独な暮らし。しかし、ある日ポドヴェルド一家のもとにやってきたのは、「天使」と「歓喜」の名を持つ殺人者だった。アンヘル・アレグリア。逃亡生活にうんざりし、ただゆっくり眠りたいという思いからこの地にやってきた彼はまず夫の、次に妻の喉をかき切った。アンヘルにとって人を殺すことには何のためらいもない。だが、アンヘルはこの家のただ一人の息子、パオロのことは殺さなかった。パオロに選択の余地はない。だが、孤独で静かな生活を送るうち、アンヘルの胸に芽生えたものはなんだったろう。世界一周の旅の途中だというルイスがパオロに文字を教え、本を読んでやるときに胸の中にわきあがってくるやるせなさ。それでも三人の生活は静かに静かに続くはずだったのだ……――あまりに年老いたヤギが死んでしまい、飢え死にしないためには人のいる市場に出かけなければならなくなったときまで。
 粗野で無知な男が、少年との暮らしの中ではじめて得た感情。これまでどうして、詩や音楽に出会うことができなかったのだろう。静かでおだやかで、だからこそゆたかな暮らしを過ごすことが、なぜできなかったのだろう。後悔してもしきれぬ思いと、殺人者として追われねばならぬという現実。
 「ザ・ロード」を思わせる男と少年の物語。「ザ・ロード」には荒涼とした世界で息子を守ることで生きる力を振り絞る父親の姿が描かれていた。「殺人者の涙」では、荒涼とした世界で少年に出会うことで、はじめて生きる意味を知る男の姿が描かれる。読み比べてもいいと思う。オススメ。



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