国男の胸の中で、得体の知れない空気が膨らんだ。これまで経験したことがない、あばら骨を内側から押し上げるようなエネルギーだった。
           
 「オリンピックの身代金」奥田英朗 角川書店

 昭和三十九年八月。東京オリンピックの実質的な責任者である最高警備本部の幕僚長宅の離れが、何者かによって爆破された。続いて、中野の警察学校。幸い死傷者こそ出なかったものの、犯人の狙いはただ一つ――東京五輪の中止である。国家の威信をかけた重大事を、たかが爆弾魔のために中止するわけにはいかない。しかし、犯人を追う側の警察は、公安部と刑事部との縄張り争いや競争意識から統一がとれず、何度も惜しいところで犯人を逃す羽目になってしまう。犯人――秋田出身の島崎国男、東大生でありながら、兄の死をきっかけに炎天下で土木作業に従事していた彼は、いったい何を考え、何を望んでこのようなことをしているのか。物語は島崎国男の視点と、彼を追う人々の視点を交互に行き来しながら、高度成長に沸く日本の歪みを描き出す。
 「イン・ザ・プール」を期待して読むと、あまりのギャップに驚いてしまうかもしれない。重厚な警察小説でもあり、若きテロリストの社会告発ともなっている。
 貧しい農村の出身ではありながら、勉強のよく出来る島崎は生活に不自由することもなく暮らしてきた。しかし、年の離れた兄が家族や国男への仕送りのために働いていた場所では、親会社の理不尽な要求に諾々と従うしかない人々が、反逆の意志すら持てずに働いていた。これをただ運命だと割り切ってしまってよいものか。これほどまでに人々を苦しめてまで、オリンピックを開催する意味はあるのか――
 格差社会といわれる現代にこそ読まれる作品なのかもしれない。映画やドラマではほのぼのした「昭和」ばかりがとりあげられるが、このような作品を通じて、違う昭和についてふれてみるのもいいかもしれない。



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