ぼくが、自分の敵を真に理解し、そいつを打ち負かせるぐらいに、よくそいつを理解する瞬間に、そのとき、まさにその瞬間には、ぼくはそいつを愛しもするんだ。 (略) そして、そのとき、ぼくが彼らを愛するまさにその瞬間に――」
「あなたは彼らをやっつけるわけね」
            
「エンダーのゲーム」 オースン・スコット・カード(野口幸夫訳)ハヤカワ文庫

 異星からの侵略者バガーを二度に渡って撃退した地球では、第三次侵攻に備えるために優秀な司令官を育成すべくバトル・スクールが設立された。第二子までしか許可されない時代に、残酷すぎる兄ピーター、穏和すぎる姉ヴァレンタインの欠点を補い、生まれる前から優秀な司令官たるべく望まれた第三子(サード)のエンダー。彼こそが最後の望みの綱、地球を救うべく願われた者。しかしバトル・スクールに入ったばかりのエンダーは、まだやっと六歳にすぎなかった。
 バトル・スクールの中にあるのはゲーム、ゲーム、ゲーム。コンピュータのシミュレーションゲームから、無重力戦闘室(バトルルーム)での戦闘まで、なにもかもがゲームだ。最優秀の兵士、決して負けることのない司令官。エンダーは己に課せられた責務を知り、どんなささいなゲームにおいても、一度でも負けたら人類そのものが終わってしまうことを理解している。だから、彼は負けられない。大人たちにとって、これはゲームかもしれない。けれど子どもたちにとってはすべてだ。そして、矛盾しているようだが、大人たちにとってはゲームは対バガー戦略のための訓練だ。しかし、子どもたちにとってはゲームはただゲームである――それもまた、事実なのである。その中で己をすり減らしてゆくエンダー。彼は誰も傷つけたくないから。彼は誰かを愛したい、理解したい。自分は兄ピーターとは違う。そう泣きながらいいきかせても、彼がなってゆくのは殺人者なのだ。彼の精神と肉体とはバランスを失い、それでもエンダーは優秀でありつづける。自分を、地球を、愛するものを守るために。
 こうやって書いてみると悲壮感たっぷりの重い話のようだが、そんなことはない。少年たちのやりとりは軽快だし、物語も起伏に飛んでいて飽きさせない。
 「エンダーのゲーム」の名台詞といえば、やはり「敵のゲートは下だ」なのかも知れないがそれは短編版「エンダーのゲーム」(「無伴奏ソナタ」所収)のほうで楽しんでいただくとして……長編版では、やはりよかれ悪しかれ次作「死者の代弁者」に続いてゆくテーマが見えていると思うので、上記のやりとりを選んだ。エンダーの他者を理解したい、という思いと、その結末の残酷さが見えているのではないかと思う。理解せずにした行為の責任は誰がとるのか。ひとの行いは表面にでてきたものだけでなく、彼/彼女がなぜそれを行わねばならなかったのか、それを知ることが大切である、と、そんなことも。
 おそらくこれも「アクロイド殺し」のように、読んだことはなくとも結末は知っている、という人が多いのかもしれない。けれど、ぜひ一度は読んでもらいたい作品である。ヒューゴー・ネヴュラ両賞受賞。


おまけ
 「エンダーのゲーム」は、ひとつには「死者の代弁者」へと続く。こちらは第一作からは三千年後(!)。やや年をとったエンダーとヴァレンタインの姿を目にすることができる、時間的続編。エンダーの他人を理解する能力はさらに磨きがかかっていて、テーマ的には第一作目をさらに深めたものになっている。「ゼノサイド」「エンダーの子どもたち」へと続いていく話の中には、相手を理解することのつらさや難しさ、理解せずにした行為の責任を問えるのか、それは罪になるのか、などということがかなり表面に出てきていると思う。


 そして、物語をもう少し別方向から楽しむのには「エンダーズ・シャドウ」へ。こちらはエンダーのバトル・スクール時代を、別の人間(ビーン)から眺めたもの。「エンダーのゲーム」とあわせて読むことで、少年たちの生活や状況がくっきりと見えてくる。また、「Shadow of the Hegemon」では、兄ピーターの姿も描かれていて、エンダーとヴァレンタインにとことん悪い人間だと思われているピーターの別の面を見ることもできる。エンダーとは深いかかわりのあるビーンとペトラのその後が知りたい人は、ぜひ、こちらを。おそらく、ヤングアダルト系なので、こちらのほうがエンターテイメントという意味では楽しめると思う。個人的にはアーライ(バトル・スクール内でのエンダーの唯一といっていい親友)をもっと読みたかったなあ…とか(苦笑)。



オススメ本リストへ