戯れに中山可穂についてこっそり語ってみる

中山可穂にはまってしまった。
最初は小声で呟く程度だったのだが、サイキンはとまらなくなって、某掲示板ではそこの管理人である芳谷さんとただふたりだけで延々、他人にはついてこられないかもしれない話をする迷惑野郎になるほど、泥沼化した。
それでは堂々と広めたい、広めることができるか…といえば、残念ながらやや二の足を踏んでしまう凡人で臆病な自分。

文章は巧緻であるし、なにより設定や台詞が近頃のトレンディドラマなんぞ足元にも及ばぬほど洒落ていてロマンティックなので、拒絶反応を起こすほど激しく嫌いな人はあんまりいないとは思う。ただ、中山可穂の恋愛は「これは同性愛なんかじゃない、たまたま好きになった人が同性だったんだ」ってのとはまるで違う。「同性が好きだから、あなたが好き」であるし、「同性も異性も好きだけど、あなたがいちばん好き」だ。このあたり、拒絶反応を起こす人がいないわけでもないだろうな、と思っている。同性愛に対する嫌悪というよりも、中山可穂の描き方に対して。そんな中山作品では、バイセクシャルの意味さえも他作家の使用法とは違っている。
たとえば「白い薔薇の淵まで」のクーチは、学生時代からつきあっていて後に夫となる男もいて、でも塁(女性)とのセックスに泥沼のようにはまる。クーチは男性とも女性ともつきあったことがあり、こういう人は、他の作家の作品ではバイセクシャルと呼ばれるように思う。が、「白い薔薇の淵まで」の中で、彼女はバイセクシャルとは表現されていない。一人称だからかもしれないが、むしろ、塁のほうにその語が与えられているのだ。しかし、塁は……本屋でクーチをひっかけた手際といい、香水の匂いをつけて帰ってくることといい、一般的にみればビアンそのものとしかいいようがない。では、クーチと塁は何が違うのか。
勝手にふらりといなくなった塁が帰ってきたときのクーチの台詞。

「どこの女と行ったのよ! それとも男なの?」
バイセクシャルの人間とつきあうと、嫉妬の分量も倍になる。

このあたりに答えがあるような気がするのは、わたしだけだろうか。

恋愛が性愛と同一に語られることが是か否か、そんなことを問うことのほうがおかしいとは思うが、中山可穂作品を大きな声でススメられないことの底流に、そのことがあることは否定しない。
魅力的な登場人物といえば「猫背の王子」の王子ミチルもそうだが、小説の出だしはこうだ。

自分とセックスしている夢を見て、目が覚めた。

「感情教育」にはこんな文章がある。

理緒の性の扉は開かれてしまった。自分はセックスが好きなのだと、三度のめしより好きなのだと、理緒にはわかってしまったのである。好きなものに関して未熟であることは理緒には耐えられなかった。好きである以上は上達したい。百人の女と寝たい、と理緒は思った。

「マラケシュ心中」の出だしも……あまり書くのもなんなので、略しておこう。

こと恋愛、性愛に関してはいくつかの描き方があると思う。ごく限られた人との愛情がセックスにつながる物語。セックスそのものが好きで、身体の相性がいい人との愛情を深める物語。もしくは、セックスのみ。愛情(気持ち)のみ。
中山可穂の小説をおそらく受け入れられない人がいるだろうと思われるのは、先ほどの言葉を少し変えるのならば「同性とのセックスが好きだからあなたが好き」「同性とも異性ともセックスすることが好きで、でもあなたとのセックスがいちばん好き」という小説だからだ。彼女の小説を好きだということは、下手をすれば性愛小説が好きだという告白と受けとられかねない。
ここまで書いていて思った。なんて凡人で臆病な自分。これでは、「わたしは性愛小説が好きになったんじゃない、たまたま好きになった中山可穂がそういう作品を書いてたんだ」といいわけしているようだ。なんだか情けない(しかしこれを書くとほんとうにいいわけになってしまうが、わたしは基本的には「恋愛小説」そのものさえあまり読まない人間なのである。ついでに書いておくと世のいわゆる性愛メインの恋愛小説、一部女性がはまるやおいものも、この何年かはさっぱり読んでいない。おそらく知り合いである水門遼子センセの作品が五年以上ぶり…)。

ただ(さらに)いいわけになるかもしれないのだが、中山可穂作品にわたしが感じるのは、主人公たちの飢えにも似た渇望であり、幼い子どもが母親を求めてやまぬように、愛する相手を求めてさまよう姿である。必ずしもセックスがすべてだとは感じられない。表面的にはそうかもしれないが、身体のつながりより他に信じられるものを持たない孤独感やさびしさも見えてくる。裏切られつづけた者が、ようやくめぐりあえた人と肌を接することで真のやすらぎを得る瞬間が感じられる。

そして、なにより中山可穂作品を砂漠の中で水を求めるかのように飲み干したいと願わしめるのは――物語のそこここにある、輝くことばの数々だ。
数多いそれらをすべてあげることはできないので、中山可穂初心者にオススメできる「感情教育」から引用してみたい。
夫と離婚し、愛する娘と引き離されるとき、那智が心の中で娘へと与える台詞。

あなたのすることならどんなことでもママは受け入れる。あなたの行く道ならどんな道でもママは見守っていてあげる。いつどんなときでもママはあなたとともにいて、あなたの幸福を願っている。ママは空のように海のようにいつもあなたの中にいる。ママは星のように花のようにいつもあなたのそばにいる。そして雨のようにおひさまのようにいつもあなたに降り注ぐ。ママとあなたは永遠につながっている。あなたが生まれてきてくれたことをママは神さまに感謝する。あなたがあなたであることを。ママの娘であることを。

また、別のところでは、親友の環が理緒に与えてくれたことば。

「理緒は時々、痛々しくて見ていられない。ちゃんと自分を愛しなよ。それから人を愛しなよ。あたしが理緒にしてあげられることはひとつしかないよ。ただ祈るだけ。どうかあなたが愛する人とめぐり会って、その人といつまでも幸せになるように。それがあたしの願いだから」
理緒はこれほど美しい祈りの言葉を聞いたことがなかった。理緒はその言葉を一生忘れなかった。長く苦しい孤独に苛まれるたび、高田馬場の路上で親友から贈られたその宝石のようなお祈りを心のポケットから取り出して呪文のように唱えたものだ。


山本周五郎賞選考会で、山田詠美が同じく選考対象となった恩田陸に対して、紋切り型の文章を使うのをやめろと誰かがいってやるべきだ、といっていたが(ということによって、結果的に山田詠美がいってやったことになったのだと思うが)、小説とは言葉への愛である、と作品の中で登場人物に口にさせる中山可穂は、下手をすれば少女漫画になってしまいそうなほど選び抜いた台詞と地の文で酔わせてくれる。
そういうわけで……「こっそり」の割にはやはり愛がまさって長く語ったが、中山可穂。オススメである。




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