それはゆっくりとやって来た。長い冬のあとに春が足音を忍ばせてゆっくりと近づいてくるように、ひそやかに、夢のように儚く、恋のかけらが二人の中で育っていった。
          
「感情教育」 中山可穂   講談社

 生まれると同時に母親から捨てられた、那智。実の父親に捨てられた記憶から始まる理緒。物語はふたりの女性の人生を丹念に追うことから始まる。
 最初からなにもかもを諦めたように、なにも求めず、相手の望むままに振舞うことを身につけた那智。誰にも何も期待しないことでだけ自分を守っている那智は、けれど、発作的に自傷行為を繰り返したり、家族のアルバムから自分の写っている写真を破り捨ててしまったりと、裡に激しい気質を秘めていることは事実だ。成長するにつれて諦念のほうが表に出てくるが、那智の本質は実際には強く激しい。那智は相手の望むままに多くの男と関係を重ね、やはり望まれるままに耕一と結婚する。幼いころから他人の家で暮らしてきた那智は、これもいままでと変わりがないんだ、と自分にいい聞かせ、耕一の両親との同居にも我慢する。そして自分の分身とでもいうべき娘の誕生。そのままであれば、那智は娘のために自分を抑え、我慢して生きていったはずだった。しかし、七年目。
「七年目に出会った人とのあいだに起こった出来事は、復讐でも裏切りでも浮気でもない。恋多き女だったはずの那智に今さらのように訪れた、最初で最後の、まじりけのない、あれこそ本物の恋だった」
 そして、理緒。記憶にある父は、理緒を遊園地に置き去りにし、それをネタに母の実家から身代金を巻き上げた男だった。着飾った水商売の母親と、次々に現れる「おじさん」たち。理緒が男嫌いになったのは、その家庭環境と母親のせいなのか。中学生になってから、好きになる子がことごとく女の子ばかりだった理緒は、それでも、自分の好きな女の子には振り向いてもらえず、ストイックな高校生活を送る。成績優秀な理緒が唯一、周囲を驚かせるほどに情熱を傾けたのは演劇だけだった。そして大学入学後、理緒は性的に目覚め、自分がいつしか女たらしの父親とまったく同じことをしていることに気づく。しかし、理緒には恋人はいなかった。宿命の恋人、前世から結ばれている恋人は。
 そして、ふたりが出会う。
 もし理緒が男だったら、ふたりはふつうの恋人同士になっただろう。もし理緒が男を愛せる女性だったら、ふたりは親友同士になっただろう。けれど、理緒は女性しか愛せず、那智はそんな理緒を愛してしまった。だから人妻はいやなんだ、といいながら、理緒は泣く。娘を置いて家を出るわけにはいかない、と那智はことばを飲み込む。愛しあうあまりのふたりの感情の擦れ違いは、痛々しいほどにせつなくも美しい。
 いつものことながら、とにかく素敵なフレーズがたくさんある。どれを抜き出そう、これを抜き出すとネタばれになるしな、これを抜き出すと読んだときの感動がないかもしれないしな、と迷いに迷ってしまった。理緒の親友である環の台詞もいいし、那智が娘にかける愛情のことばもいい。ラストは泣けること必至。



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