一、半チャンラーメンの食べ方
二、鯖と昆布
三、ハムなんか作ってしまおう
四、筍三本立

一、半チャンラーメンの食べ方

ひるめしどきに蕎麦屋に入るという行為は比較的軽めの食事でさらっとまとめたいという意思を反映したものであり、個人差はあろうが焼肉屋や三ツ星レストランや中国宮廷料理店に入るよりは軽食志向が強いと言って間違いなかろう。ところが蕎麦屋の中には「蕎麦定食」と銘打ってミニ天丼やミニ牛丼、ミニカツ丼などをセットして昼時の目玉商品としているところが結構多く、そのようなメニューを見かけると途端に気に迷いが生じ、蕎麦を食いたかったのではないのかと自問しつつもカツ丼もちょっと食べてみたくなる。20代の頃ならそれでよかったのだが最近はこのようなセットを頼んでしまった時は必ず後悔する。全部食べきれないのだ。こんなことならけんちん蕎麦とか掻き揚げ蕎麦などにしておけばよかったと思うのである。ところが、このような複合メニューの中で今でも不思議に食べられるものがある。「半チャンラーメン」だ。

人類が共通して抱いてきた悩みの一つに中華料理屋に入ったときラーメンにするか炒飯にするかという悩みがある。両方頼むと当然量が多すぎて食べきれない。これを見事に解決した「半チャンラーメン」という「料理」をおいしく食べるためには意外にもその手順が重要である。良識ある店ではラーメンが最初に出てくる。もし炒飯を先に出された場合、あなたは黙ってその店を立ち去るべきであり、その味はわざわざ食すまでもなく何も期待できないものであることは明白である。炭水化物系主食の前にスープを摂取することを否定する食事は世界中のどこを探してもあろうはずがなく、その店の店主はもはや他人に食事を供する資格すらないからだ。さて、目の前のラーメンに対してあなたが最初にするべきことは?麺を食べる?スープを飲む?どちらも間違い。ねぎをスープに広げ浸し、叉焼を麺の下に沈ませるのだ。これらの具はその鮮度、品質を客に確認してもらうために必ず麺の上にトッピングした状態で出される。このとき古くなった葱特有のいやな匂いを確認できた場合、食べる食べないは自由だが店を出る時、店主に「葱が古いよ」くらいのことは言ってやろう。収穫されて一定時間を過ぎた葱は不快な匂いを放つもので、いくら水にさらしてシャキシャキさせていても食えたものではない。スープの中に沈められた叉焼は余分な油をスープに放出し、逆にスープの味と旨みを吸収する。そしてもうひと手間、右手に箸、左手にレンゲの体勢(逆も可)で麺全体を軽く持ち上げてスープと馴染ませる。これで第一段階の完了となる。長々と書いたがここまでの作業は10秒以内で行わなければならない。胡椒などをこの段階で振りかけるのは言語道断であり、食事時間、あるいは食事量の半分くらいまでは調理人の供したそのままの味をあじわうのが作法と心得たい。その後、備え付けられた塩、胡椒、酢などを用いて自分の好む味に調整するのは自由である。

スープを一口啜る。このときその店の実力、店主がどう生きてきたか、経営が黒字か赤字か、3ヶ月先、1年先にこの店が存在するかどうか、霧が晴れたように見えてしまう。麺を食べる。スープと麺の味や食感は人それぞれがうまいと思えばうまいのであり、テレビや雑誌で評判の店を訪れるのばかりが能ではない。名も知れぬ店で思わぬいい味に出会ったときほど痛快なものはなかろう。

そろそろ炒飯が出されるに違いない。お椀型にかたどられた炒飯はそのままでは蒸れてしまう。右手の箸でも左手のレンゲでもいいから軽くほぐしておこう。この炒飯に手を付けるまでに麺を少なくとも半分は食べておきたいのは「のび」を防ぐための定石だ。そしてここからのリズムは音楽的にいこう。程好く湯気が抜けた炒飯をレンゲで一口、咀嚼嚥下した後に同じレンゲでラーメンのスープを一口、麺を一箸、ここでスープの中から叉焼を取り出して一気に食べる。スープを十分に含んだ叉焼は口の中でとろけるはずだ。咀嚼嚥下ののちに炒飯を(具の叉焼をわざと避けて)一口、スープ、麺?炒飯?後はあなたの音楽だ。必ず守っていただきたいのは第一に上記の順序を間違えないこと、第二に麺は伸びる前に食べきってしまうこと、第三に口の中の炒飯に対して麺やスープを混ぜないことである。その他、叉焼はスープが冷める前に食べること、合い間にメンマ(貴重な食物繊維)でリズムを整えること、スープは味付けをよく吟味し健康を害しない程度に飲むことなど、各自研究していただきたい。

最初に書いた「蕎麦定食」と「半チャンラーメン」の大きな違いは、単なる炭水化物の重複という域を出ない前者に対して後者はラーメンと炒飯が一体となってひとつの「料理」が完成されている点にある。ラーメンのウエットな食感とドライな炒飯との見事な対比、その炒飯を食べる上で欠かせないスープの役割をラーメンのスープが担う、炒飯の単調な噛み心地に麺が変化を添える。まさに三位一体の調和と言うことができ、この調和は相撲の世界でよく言われる“心”、“技”、“体”にあてはめるとよくわかる。スープは料理人の“心”を映す鏡、火の扱いと鍋振りに確かな“技”が不可欠な炒飯、“体”全体を使って捏ね上げてはじめてコシと柔らかさを兼ね備える麺。そう、「半チャンラーメン」は昼ご飯の横綱なのである。

(2001年7月28日)



二、鯖と昆布

 「鯖の味噌煮」は長年わが国で鯖料理の王者として君臨し続け、古くは蘇我入鹿が大化の改新前夜に食したという記録こそ残っていないが、大石内蔵助が吉良邸討ち入り前夜に食したという記録も残っていない。しかし、そんなことはどうでもいいぐらいに鯖の味噌煮はうまい。無論、これと対極の位置に「しめ鯖」という料理があり私は断然こちらのほうを好むのだが、生の鯖に対して警戒心を持つ人はかなり多い。結果、鯖料理全体に占める味噌煮の支持率は非常に高いものとなっている。先頃の参院選における大橋巨泉氏の出馬ではないが、圧倒的な支持率を誇るものに対しては少々抵抗を試みたくなる。そんなわけで味噌煮を超える鯖料理を考えてみることにした。

 鯖が売られている形態には大きく分けて2通りある。一つはまったく生の鯖、もうひとつは塩鯖である。実はもう一つ、干物(文化干、味醂干等)という形態もあるのだが、これはそのまま焼いて食べるしか法律で認められていない(嘘)ので、ここでは割愛する。

 さて生の鯖、私などはこれをさまざまに加工してしめ鯖、煮物焼物、干物燻製等の料理にするのがこの上なく楽しいのだが、27歳で結婚してはみたものの魚などは一匹も捌いたことがなく魚は切り身で泳いでいると思っているような奥様方には荷が重かろう。かといって鯖なんか定食屋小料理屋でしか食べられないと半ばあきらめかけているご主人にスーパーやコンビニで煮て焼かれて冷めてパックに詰められて店頭に半日晒されて近所のおばさんが5〜6人ラップ越しに指でつっついた鯖を買ってくるのはちょっと待っていただきたい。そんなあなたの強い味方、それが塩鯖だ。「生き腐れ」と言われオリンピックに出れば確実にメダルを取れるほど「足の速い」鯖がぴちぴちに新鮮なうちにひと塩することによってその鮮度落ちを止める。さらに保冷技術が進歩したことによって真夏でも脂の乗った寒鯖を入手できるようになった。実際、条件がよければそのまま酢絞めにすることで上質のしめ鯖を造れるのだが、そのような素材は通常の流通ではめったにお目にかかれないし、事故があっても責任は持てないいのでここではお勧めしない。2〜3枚におろされた塩鯖の身にプクッと張りがあり色も良ければとりあえずひとつ買ってみよう。このとき“切り昆布”を売っていれば買わない手はない。実はこれで役者が揃うことになる。

 なんのことはない、煮魚をつくるのである。鍋に水、砂糖、味醂、醤油をお好みの比率で温め、水洗いした“切り昆布”を敷き詰めた上に塩鯖を載せる。鯖は好みの大きさに切ってもいいし、半身そのままでも構わない。後は弱火でじっくり煮あげるだけだ。ただひとつ気をつけるべきは煮汁の濃さで、通常の煮魚をつくる時よりも二倍ほどまで水で薄めておく。つまり1時間半ほどじっくり煮あげた段階で通常の煮魚のように仕上がっていれば結構ということだ。“切り昆布”に巡り会えなかったら乾物の出し昆布を使っても問題ないが、この場合は昆布をしっかり水に浸し、その出汁(だし)とともに使うといいだろう。途中、鯖に火が通った頃に生姜の薄切りを入れておけばさっぱりとした味に仕上がる。煮上がったらそのまま食べてもいいのだが、少々我慢できるようならしばらくそのまま冷ましておくことによってさらに味が馴染む。ほんとうは一晩冷蔵庫で寝かせた翌日が一番うまいのだ。昆布の出汁と一体になった鯖だけを喜ぶことなかれ、鯖の旨みを余すことなくいただいた昆布をぜひ味わっていただきたいものである。

 実はこの料理、私の母がよくつくってくれた昆布巻きを簡略化したものである。多くの場合、身欠き鰊(にしん)を巻き芯として使うことが多い昆布巻きだが母の場合は時折塩鯖を使用することがあり、これが実にうまい。長年どうしてこの組み合わせがうまいのかと考えたが、“鯖と昆布だからだ”との単純な結論で今日に至る。

さあ、昆布巻きとは言わないまでもこの簡単な煮魚、つくってみてはいかがか?グルタミン酸とイノシン酸の融和に目を丸くする亭主の前で腕を上げた27歳主婦のほくそえむ姿が目に浮かぶようではないか。

(2001年9月1日)



三、ハムなんか作ってしまおう

 冷蔵庫の中に市販のハムがあればその原材料欄を読んでみるといい。

豚肉・糖類(水あめ、砂糖)・食塩・カゼインNa・調味料(アミノ酸等)・リン酸塩(Na)・酸化防止剤(ビタミンC、ビタミンE)・発色剤(亜硝酸Na)・香辛料

 肉、糖類、食塩まではわかるがそのあとはいったい何が入っているのかさっぱりわからない。はたしてこのようなわけがわからない材料がなければハムは作れないのだろうか?要は豚肉に対して“塩漬け→燻煙→加熱”という処理を施せばいいはずである。これは実験してみなければというわけでさっそく豚の肩ロースをひとかたまり買ってくる。もちろん腿肉でもよかったのだが、加熱しすぎてパサパサのコチコチになる失敗を恐れて最初は脂の多い肩ロースを選んだ。この肉塊を今後“肉塊”と呼ぶのもグロテスクなので便宜的に“マリリン”と呼ぶことにする。

さて、約500グラムの“マリリン”に対してどれくらいの塩を使うべきか見当もつかなかったが、一週間ほど熟成させるつもりなのでおよそ大さじ2杯強の塩をマリリンの柔肌にたっぷり擦り込んでやることにした。ついでに黒胡椒を荒挽にしてこれもたっぷりまぶし付けた。これをビニールの袋に密封して冷蔵庫のチルドルームに寝かせる。さあ、マリリンは一週間後どのような姿を私の前にあらわすことか。

 一週間が経った。歳を取るとどうも月日が流れるのが早い。水分が出てしっかり身の締まったマリリンはその中心部まで塩が浸透しているように見える。このままではしょっぱいはずなので、一晩水に浸して塩抜きをしてやるとしよう。一晩経った。哀れマリリン、今度は土左衛門のごとく少々ふやけ気味だ。ここで出番となるのが脱水の王者「ピチット」(旭化成)だ。これにマリリンを包んでもう一晩。3度目のチルドルームに入れるときマリリンが「なにすんねん。」と小さな声でつぶやいた。どうやらマリリンは関西育ちらしい。マリリンが包まれて眠る「ピチット」とは特殊フィルムの間に水あめや海草成分をはさんだシートだ。塩をした魚を包んで一晩冷蔵庫に置けば、外に干さなくても一夜干しができる超裏技的アイテムなので一度使ってみるといい。

 3度目の目覚めの後、マリリンを待ち受けていたのはタコ糸による“縛り”であった。もはや「なにすんねん。」とも言わない。縦に横にハムらしく縛られたマリリン、今度は桜のチップで2〜3時間いぶされなければならない運命を悟ったかのごとく静かに横たわっている。この燻煙作業、本来は河原などでおこなうべきだが今回は小規模なので自宅でやることにした。といっても、マンションのベランダで悠長にのろしを上げていて消防車や機動隊自衛隊、火付盗賊改に新撰組などが殺到してはご近所の手前困ったことになる。そこで換気扇を最強にしてレンジ台の上で燻煙することにした。換気扇の排気口から煙が出るのは柳の下に幽霊が出る、おやじの頭から湯気が出るのごとく当然のことで、後は知ったことではない。燻製器はいたって簡単、缶ビールの入っていたダンボール箱の半分どころよりやや上部にバーベキュー用の串を5本ほど水平に適当な間隔で並べて貫通させ、その上にマリリンを乗せる。串のやや上部に横20センチ、縦10センチほどの開閉式の窓を作ってやると肉の出し入れや途中ひっくり返すときに大変便利である。窓はぴっちり閉めると意外に煙は漏れないようだ。箱の下部にも同様の窓を開け、陶器製の灰皿を底に置いてその上で適度な大きさに割った集成チップを燃やせばいい。箱の上面には排煙用の穴を確保しておかなければならないが、缶ビールの箱にはちょうど開梱用の隙間があるので逆にそれを少々塞いで小さくするくらいで事足りるだろう。それ以外の部分から煙が漏れるようならガムテープなどで塞げばいい。燻製用の集成チップはアウトドア用品店などで手に入り、いくつかの種類が揃っていてとても便利だ。桜がいいようだが“胡桃”、“楢”等いろいろ試してみたいところだ。実はこの作業、煙が漏れていないようでも翌日は部屋中が煙臭くなることを覚悟しておいていただきたいのだが、1日経てば消える(慣れるとも言う)。2〜3時間の燻煙を終えたマリリンはその肌から上質のハム特有の芳香を漂わせつつ魔法の“玉手箱”から出てくる。もはや肉塊とは呼ばせない、立派なハムへと変貌を遂げた私を見て!見て見て見て!!!誇らしげにミスコンテストのようなポーズを取るマリリン、文字通り手塩にかけて育てたマリリンには申し訳ないが、これから少々熱い思いをしてもらわなければならない。いよいよ最後の工程“加熱”である。

 加熱作業で最も重要なのが温度管理である。肉の中心温度が100度以上になると内部の水分が沸騰して焼豚状態になってしまう。これではハム特有のしっとりと弾力性のある肉質には仕上がらない。正しくは70度程の温度を保ってゆっくり茹で上げるのだが、火の調整が難しいし温度計も無かった。そこでガスオーブンの低温でじっくり焼くことにした。何度かやった経験上、温度目盛を115度にして1時間ほど焼くと肉の内部がちょうど70度ほどに仕上がるようだが、これは使用するオーブンや肉の大きさによって違うので試行錯誤が必要かもしれない。もちろん、いつか温度計を買ってきて“茹で”にも挑戦したいのだが、この場合は肉汁が逃げないようにセロハンなどでラッピングする必要があるだろう。

 焼き(茹で)上がったマリリン、すぐにナイフを入れてはいけない。そんなことをすると体内にあふれんばかりの肉汁はたちどころに流出してしまい、あとに残るのはパサパサの肉繊維のみだ。じっくり冷まして内部の脂が旨味を固定するのを待つのである。何事も“詰め”を誤ってはいけないということか。冷めたら出来るだけ薄くスライスしてお気に入りの皿の上に並べてみよう。オレンジママレードなどを添えるのもいい。試食?大成功かもしれない。加熱し過ぎかもしれない。しょっぱいかもしれない。しょっぱければスープに使えばいい、大切なのは“ハムは作れる”ということを確認することだ。発色剤を使わなくても天然自然の桜色のなんと美しいことか、保存料を使わなくとも冷凍すれば保存には十分に耐えるではないか。あなたが“いける口”ならお気に入りの酒をマリリンが引き立てる。彼女を拒む酒は無いはずだ。さあ、今ならおせち料理に間に合うだろう、明日にでも豚肉を買いに行くといい。買って来た肉塊、“愛子”と名付けるかどうかはあなたの自由である。

(2001年12月21日)



四、筍三本立

 巷で「花見」と称した乱痴気騒ぎも落ち着きを見せるころ、国産の筍がめっぽう美味くなってくる。筍に国産という修飾語を付けるのも一昔前なら滑稽な話だったろうが、近年茹でた状態で売られている筍は特に産地が記されてない限りほとんど中国産になってしまった。とは言ってもこの季節に掘りたての筍を皮ごと茹で上げたものと輸入物ではその風味において雲泥の差があることは歴然としている。筍に限らず輸入作物に押されがちな日本のお百姓たちもこのような圧倒的な優位性をもっとアピールすべきだ。流通団体共々営業努力を放棄してセーフガードを求めるだけでは無能呼ばわりされても仕方あるまい。中国から輸入される作物に施された薬品による保存処理を問題視する声が少なからぬ昨今だが、先日スーパーで見かけたご婦人連がメンマの水煮を取り上げて「中国産だからやめときましょう。」と言っている場面に出くわして「メンマは中国が本場だろう。」と、私の母親ほどの年恰好のご婦人に対して心の中で「腕ひしぎ逆十字」をかけてやったものだ。まあ、これは余談。

 最近は皮付きの筍を売っている良心的な八百屋であればほとんどの店で小袋に入った米ぬかを用意している。普段もらってもうれしくもないものだが、このときばかりは遠慮しないでもらって帰ろう。家にまるごとの乾燥唐辛子がないのであればついでに買っておきたい。ちょっと待った、そこにシャキっと伸びた蕗があるはずだ。買い買い。

 いくら新鮮とはいえ掘り出されてから1日以上は経過している筍、しっかりアク抜きをしなければ並みの人間に食べられるシロモノではない。わざわざそのために米ぬかをもらってきたのだ。筍の先端を4分の1ほどを切り捨てる。硬いので怪我のないよう細心の注意を払いつつも渾身の力を込めて切断しよう。次に縦に一箇所切れ目を入れる。先端は深く根元は浅く、中の身を傷つけないイメージで斜めに切り込む。鍋に筍と水を入れ、もらってきた米ぬかと乾燥唐辛子を数本入れて火にかける。米ぬかが余ったら亭主のアク抜きにでも使うことだ。鍋に入りきらないような大きな筍の場合はパスタ鍋がお勧めで、一部が水から出ていてはアク抜きの意味がない。根元の部分はどうせ硬くて食べられないのであらかじめ削り取っておくとうまく鍋に収まることもある。なぜ皮を残して茹でるのかはよくわからないが、アクは抜きつつも風味は残そうという先人の知恵だろう。沸騰するまでは強火でいいが、その後は弱火に落として1時間ほどじっくり茹でる。火を止めたら茹で汁に手を突っ込めるようになるまではそのまま冷まして残りのアクを出し切ろう。すぐに手を突っ込めるほどの鉄人なら茹でるまでもなく生でかじればよろしい。あわてて流水で冷ましたりしたら肝心の香りまで流し捨てることになるのでご注意を。

 ところで、庭に山椒の木を植えている気のいい隣人がいたら葉を数枚もらってこよう。「木の芽和え」をつくるためだ。あるいは通りすがりの庭に山椒の木を見つけたら新体操の練習でもしている振りをして腕を伸ばし10枚ほど失敬するという方法もある。私はもっぱらこの方法を用いる。パックに山椒の葉を数枚入れてスーパーで200円で売るというビジネスを公正取引委員会は認めるべきではない。

  さあ、アク抜きした筍を適当な大きさに切り分けたら、今夜のメニューは筍刺身と木の芽和えということになる。生醤油だけをつけて食べる刺身が美味いのは言うまでもないが、最も季節感を味わうことができるのはやはり木の芽和えだ。木の芽和えに使う筍は酒と少量の塩を入れたかつお出しで煮て下味をつける。その間に"木の芽味噌"をつくっておくのだが、このときほうれん草をほんの少し用意しておきたい。お浸しにするときと同じ要領で湯通しして水でアク抜きをしておく。山椒の葉を数枚、すり鉢で形がなくなるまで擂ったら水気を絞って細かく刻んだほうれん草を入れてもう一度よく擂り潰す。最後に少量の砂糖と白味噌を入れて味付けすれば完成だ。水分は筍の煮汁で調節する。菜箸と指を使って覚ましておいた筍とサクサクっと和えてみよう。どうだろう、色白の筍のキャンバスに描かれた初夏の新緑のような木の芽味噌のなんと美しいことか。ほうれん草は緑の色をふくよかに増幅しつつも自己主張をしないという名脇役を見事に演じる。実は今回ほうれん草を買い忘れてしまい、仕方なくレタスの外側の青い葉を使ってみたのだが、これが思いのほかさっぱりした味に仕上がった。予期せぬ怪我の功名は愉快だ。筍だけでは物足りないとお嘆きの貴兄には絶妙なコンビネーションを見せる素材を一品上げておこう。それはイカである。するめイカなどより、もんごうイカのような肉厚のものがよく合うみたいで、酒塩でサッと火を通したものを筍と一緒に和える。辛口のお猪口を片手に、お父さんがううーんと唸る一品になること請け合いだ。

 筍を2〜3本茹でたのなら新しい水に浸した状態で冷蔵庫に入れておけば5日間ぐらいは日持ちする。水を時々取り替えるのがコツだ。2日目は買っておいた蕗と炊き合わせる。鍋に入る大きさに切って水洗いした蕗は熱湯で1分間ほど茹でて冷水に晒しておく。まず筍を煮るのだが、今回は木の芽和えのときよりもしっかりした味付けにしたい。市販の白だしなどを使うと簡単だ。筍が煮あがると煮汁から全部取り出し、同じ煮汁で皮をむいて長さをそろえた蕗を煮る。蕗は煮過ぎてはいけない。シャキっとしない蕗はシャキっとするポテトサラダと同程度の落胆をもたらすものだ。3〜4分も煮ればじゅうぶんであろう、火を止めてそのまま置いておけば味は染みる。あとは盛り合わせるだけ、好みにもよるが私は冷めてから食べるのが好きだ。

 3日目は筍ご飯で得点を稼ごう。筍だけが入ったシンプルなものもあるが、今回は思わずニッコリとなるような楽しいご飯にしたい。昨日、蕗の皮をむいた段階のものを何本か取っておき、これを3ミリ厚ぐらいに刻んでおく。手鍋に出し汁を用意し刻んだ筍と油揚げを軽く煮て下味をつける。今回は少し醤油っぽいほうが適度に色がついて見た目にもおいしそうに仕上がる。ここで裏技紹介だが、市販の昆布つゆはこういうときにけっこう使える。ただし、味が濃くなり過ぎないように注意して。煮あがったらまず煮汁だけを米に混ぜ、水加減を調節する。それに下煮した筍と揚げを入れ、さらに刻んだ蕗と針生姜を加える。お勧めは、押麦を入れて麦ご飯にすることだ。後は炊飯器にまかせておけばうまい具合に炊き上げてくれるはずだ。仕上げに、取っておいた木の芽を手のひらの中でパンとたたいて上に添えれば、ご亭主から1200円ほどいただいても文句は言われないだろう。自慢するわけではないが、わが家の場合は南部鉄の鍋を使ってガスコンロで炊き上げる。絶品である。

 筍は年中店頭でお目にかかれるようになったが、文字通り竹の旬と言える味わいを楽しめるのは今だけで、その調理法は多彩だ。ここでは採り上げなかったが他にもてんぷら、味噌汁、炒め物と、思い思いの方法で楽しんでいただきたい。まあ、私はこういった具合に例年、この時期の数日間はパンダのような食生活を楽しんでいるというご挨拶であった。

(2002年4月12日)