「夫は本当の私じゃなくて、自分にふさわしい別の女を私に押しつけて、その女しか愛そうとしなかったんです。それ、浮気のようなものでしょう? 本当の私はいつも置き去りにされてきたわけだから」
           「ゆきずりの唇」 連城三紀彦 中公文庫


 四十八歳の藍沢晶子。まだ崖っぷちじゃないわ、とうぬぼれ、でも、残照のような最後の光かもしれない、とさめた目で見つめなおし、でもやっぱりあの広いベッドで一人寝るにはもったいない身体だわ、と自分に言い聞かせる……そんな年齢。二歳年上の陶磁器メーカーに勤める夫には何不自由のない暮らしを与えられ、二十三歳の娘、陽子もそろそろ結婚を控えている。けれど、ある冬の日、晶子は本当の自分になるために家を出よう、と決意するのだ。そこにかかってくる一本の電話。それは、陽子の不義を憂う、婚約者村瀬からの電話だった。自分のことをお義母さんと呼ぶこの青年を、晶子はいつしか想いはじめていた自分に気づいてしまう――
 この青年を娘の陽子から奪いとることはできる。だが、金に困った者が金持ちのふところから札束を強奪するように、若さを失った自分がこの青年から二十八歳という年齢を――かけがえのない若さを盗みとることだけはしたくなかった。
 なにが本当でなにが偽りなのか。晶子自身にも己の心がわからず、錯綜した思いは絡まりあいもつれあい、その混乱ぶりこそまさしく連城ワールドともいえる。村瀬の母親と同じ年齢の自分、しかも夫ばかりか娘の存在もある。すべてを忘れましょうと、最初から別れだけを考えた恋愛は遊戯なのか真実なのか。本音の見えない台詞のやりとりの中でこぼれる生の声。
 さわやかな読後を残すラストまで、目が離せない。



オススメ本リストへ