それは公子を傷つけた地上のものへの象徴、その証しではなかったか。真に、真にその夜、公子は傷つけられたのであった。手にばかりではなく。
          
   「惑乱の公子」 タニス・リー(浅羽莢子訳) ハヤカワ文庫

 かつて地球が平らかなりし頃、五人の闇の君がいた。闇の公子アズュラーン、死の王ウールム、そしてもうひとりが狂気の異名を持つ惑乱の公子チャズ。右側からみれば美しい若者、左側からみれば恐ろしく醜悪な老人。数世紀にわたって人類に狂気を与えてきたチャズの業に、ついに闇の公子アズュラーンもその姿を現した。だがその頃、人々はかつてアズュラーンに抱いていた畏れを失い、神々に代わって闇の公子が身を投げ打って地球を救ったことさえ忘れていた。人類の忘恩に傷つけられたアズュラーンを癒したのは、<月の魂>の名を持つ乙女。宿敵チャズの思惑どおり、アズュラーンもまた、恋の狂気にとりつかれようとしていたのだ。
 闇の君の中でももっとも人間くさい惑乱の公子チャズ。積極的に悪事をなすというよりは、狂気の兆しを受けて現れる存在といったほうが正しいかもしれない。物語はチャズにかかわりのあるいくつかの物語を積み重ねながら、アズュラーンの恋というあり得ないようなできごとを軸に展開する。闇の公子の中でももっとも残酷で冷たく、邪悪の塊のようなアズュラーンが、チャズとかかわることでその人間らしさのようなものを表面化させてしまうのが見どころといえるか。
 「闇の公子」「死の王」「惑乱の公子」ときて、平たい地球シリーズのうちでもアズュラーンを主にした話はここでいったん終わりを迎える。だがもちろん、地球上で闇と狂気の物語が展開されつづけることは当然である。



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