「――ところが、あいつは自分が主人公みたいに思っている。主人公が脇役の戦いを手伝うみたいな意識があったらしい。さらに吉川の<坊っちゃん>のひとことで、わーっと逆上して、完全に主人公の世界に入ってしまった」
                 
「うらなり」小林信彦 文藝春秋社

 昭和九年、銀座三越の前で、「私」、古賀はひとりの男と待ち合わせをしていた。待ち合わせの相手は、かつて四国のある中学校で同僚だった数学教師の堀田である。それぞれの近況を話し、別れた後に、私は三十年近く前の四国での生活を振り返る。
 いま思い出しても奇妙なのは、私がその中学校を辞める少し前に着任してきた、ある新任教員である。名前は忘れてしまったので<五分刈り>と呼ぶことにするが、あちらはあちらで、どうやら私のことを<うらなり>と呼んでいたようなのでおあいこである。五分刈りには人の心に土足で入ってくるようなところがあった。自分の考えや行動はよろず正しいと思っているらしいのが私とは合わなかった。合わないというよりも迷惑である。ところが相手はこちらに好意をもっているらしく、下宿を飛び出した夜にいきなり訪ねてきたり、送別会ではいたたまれない私を連れ出してくれたりと、何かと心にかけてくれていたようだ。だが、そんな彼もマドンナと呼ばれる美少女と私との関わりについては、あまりよく知らないようだった……
 夏目漱石の「坊っちゃん」を、英語教師うらなり視点で解き直した一作。うらなりにとって見れば、自分が転任するまでの半年ほどを一緒に過ごしただけの<五分刈り>=<坊っちゃん>は、いまとなっては名前を覚えていないほどの存在である。三十年たって、堀田(山嵐)が奇しくも口にするように、私にとっては坊っちゃんは脇役であって、主人公ではなかったからだ。マドンナ事件によって日向に転任させられ、のちに姫路に移り住んだうらなりのその後、思いがけないマドンナとの再会。劇的な人生ではないのかもしれないけれど、誰もが自分の人生の主人公である。しかも小説のような、いやむしろ小説にしたら罵声を浴びせられそうな嘘のようなきっかけで、のちに妻となる人との見合いにこぎつけたあたり、人生ってわからないものだなあ、と呟いてしまいたくもなる展開である。
 坊っちゃんほどにちゃきちゃきした語り口調でもなく、抑制された常識人の文体であるところも、かえってうらなりらしく、おもしろい。「坊っちゃん」を読んだことのあるすべての人に読んでもらいたい一作である。
 ひさしぶりに「坊っちゃん」も読み直したくなった。



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