肩で息をしながら席を立った。縮刷版のページの間から、殺された人の悲鳴が聞こえるようだった。自分もこのページを飾る一人になっていた。新聞がこれほど怖いものだとは思ってもいなかった。
              
 「繋がれた明日」 真保裕一 朝日新聞社

 6年前の夏、思いがかけない成り行きからひとりの男を殺し、少年刑務所に入れられた中道隆太。ナイフは持っていたけれど、護身用だった。殺すつもりはなかった。殴りかかってきたのは相手が先だった。けれど、隆太の言い分は信じてもらえず、殺された男の友人である目撃者の言い分だけが一方的に取りあげられた。悔しさの中、反抗的になっていた一年目。仮釈放のことを考えはじめ、従順になった二年目以降。それでも、目撃者を恨んでいるかと問われれば、まったく恨んでいないとは決して口にすることが出来ない。正直者は損をする。けれど、殺意はなかったのだ。死んでしまえば被害者で、生き残れば殺人者なのか。
 人殺しである自分を最低だと罵りながらも、割り切れなさをぬぐいきれずに仮釈放を迎えた隆太は、保護司や母親の言葉をすなおに聞くことも出来ない。そして、そんなある日、
「この人は人殺しです」――会社に、アパートに、妹の会社に配られた中傷のビラ。誰が、何のために。隆太はひとりで犯人探しを始める。しかし、そんな彼の前には次々に障壁が立ちふさがってきていた――
 死んだ者は生前に犯した罪を問われず、被害者となって祀られる。残された加害者は、罪の足かせを一生ひきずって歩くしかない。
 生きていられるだけましだ、死を与えたという結果も重い。頭では理解していても、なお被害者を恨みたくなる感情。事件それぞれ事情は違うじゃないか、と。自分は殺す気などまるでなかったのだ……と。
 この物語は、人殺しであるということで受ける差別や反感、家族や他人に対する負い目の中で、一人の少年が再生していく物語である。過ちを犯した者が立ち直れないシステムなどあるはずもない。けれど、目には見えなくても存在しているものは確かにある。ほぼ全編に渡って、中道隆太は決して好きになれるタイプの少年ではない。恨みつらみや愚痴がわだかまり、後ろ向きで。けれど、彼をそうさせてしまった社会のあり方はよく見える。
 ラストまでの流れを綺麗事だと片付けるのは簡単かもしれない。けれど、それ以上のものがあると思う。おそらく、それは書かれていない部分で、自分で考えなくてはならないことなのだろう。
 今日も新聞にはさまざまな事件が掲載されている。その中に悲鳴を聞きとることの出来る人が、どれだけいるだろうか。


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