「人間?」という問いかけは、ただ苛立たしいだけだった。
 わたしは自分という人間に疑問を抱いたことはない。同様に他人についても疑問を抱いたことはない。だから人間という単語に対して理想や幻想を抱くこともないのである。
        
 「妻の帝国」 佐藤哲也 早川書房

 物語は都立七和手高校の化学の時間から始まり、七和手という土地を中心に進められる。ある一人の生徒が、教師の質問に対して「民衆」という言葉を用いる。その生徒、無道大義はその三日前、住所の書かれていない手紙を受け取っていたのだ。「七和手地区主任補導官殿」と書かれたその手紙がすべての始まりだった。差出人は「最高指導者」。中には指令第一号が記されていた。そして、その指令を目にした瞬間、大義は決然として目覚めたのである。真の民衆の一人である、と。民衆独裁国家。民衆感覚に覚醒した人々は、直感による民衆独裁を目標とし、個別分子を逮捕、補導していった。そして、「わたし」の妻、不由子は「最高指導者」だったのだ。
 毎日妻が出す大量の手紙。切手代だけでも馬鹿にならず、夫婦喧嘩の末、「わたし」はピラミッド型の組織にすることを提案する。そして、組織が作られた。けれど、真に受けていたかといわれればそうでもない――しかし、世界は確実に変わり始めていた。
 「妻」という存在の帝国ではなく、「わたしの妻」の帝国である。宛先がないのに届く手紙、「民衆感覚」という直感、いわゆる暗黙の了解のみが先走る不条理世界。秩序などというものはなく、そこにあるのはただ、何とかなってゆくだろうという意志だけなのだ。世界が崩壊し始めている中、ひたすら手紙を書き続ける妻。そしてわたしは、他の民衆たちと同じように、そんな時代に翻弄されながら生きてゆく。
 次々に送られてくる指令に苦しむ無道大義と、最高指導者の妻を持ちながらも、<たみめーる>などというふざけた名前の手紙の集配所に徴収された夫、などという、ブラックな部分もある。この人の妻って佐藤亜紀だったよね、なんてことは思ってはいけないことですね、きっと……――
 裏表紙に書いてあるように、「残酷で饒舌な超絶技巧描写」。好みはわかれるかもしれないけれど、オススメです。



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