「楢橋さん」隣に立ってビデオカメラをかまえる葵に小夜子は言った。「楢橋さんといっしょだと、なんだかなんでもできそうな気がする」
           
      「対岸の彼女」角田光代  文春文庫

 専業主婦の小夜子は、生来の人付き合いの苦手意識が娘のあかりにまで遺伝しているような息苦しさ、公園での他の母親たちとの付き合いに頭を悩ませる日々――そんなものは働き始めれば消えていくのではないか、という意識から仕事を探しはじめ、偶然、ベンチャー企業であるプラチナ・プラネットの楢橋葵にスカウトされる。旅行社であるプラ・プラが新たに立ち上げたハウスクリーニング部門での採用だったが、小夜子はそこで自分なりの働き方、生き方を見つけたように思い、生き生きと働き始めた。だが、おない年ではあるが独身で社長の葵と、妻であり母である小夜子との間には、どうしても越えがたい何かがあるようだった……。
 物語は小夜子の視点で進むものの他に、高校生の葵が閉塞感しかない高校生活の中で同級生のナナコと出会い、ついには逃げるかのように町から町へと渡り歩く生活へと流れて行く姿を描いている。そしてその逃避行はのちに新聞や雑誌におもしろおかしく取り上げられ、当時やはり閉ざされた高校生活や人間関係に苦しんでいた小夜子にも強い影響を与えていたのだ。ふたりの関係は、小夜子が、葵こそかつて自分が活字でしか知らなかった事件の当事者であることを知ったとき、また新たな展開を迎える。
 友情と亀裂。成長することによって否応なく訪れる別れだったのかもしれないが、それを受け入れることができずに、常に心の奥底に何かを抱えなければならない苦しみ。大人になっても消えない繊細な感情を丁寧に描いた作品。
 かつて高校生だった、そしていまさまざまな立場の違う友人を持って暮らしている、そんな女性たちには共感できる部分も多いのではないかと思われる作品。



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