この六畳の古びた茶の間は、のどかな幸福の空間だった。良い笑いがあった。自然な人の和があった。現在にも未来にも、暖かい光が満ちているように思えた。
              
  「しゃべれども しゃべれども」 佐藤多佳子 新潮文庫

 「俺」は今昔亭三つ葉、弟子に稽古をつけるのさえ面倒くさがるような大人物の師匠、今昔亭小三文一門の二ツ目、古典落語にこだわる噺家である。そんな三つ葉を本名で達ちゃんと呼ぶ従弟の綾丸良は、端正な顔立ちをしたテニスコーチだが、幼い頃には吃音がひどく、いままた、コーチのストレスから吃音が戻ってきてしまって他人を教えるどころではない。だが、そんな弟分に話し方を教えろと頼まれても、話し方の指導なんてできっこないのだ。そんな三つ葉が思いついたのは、落語を教えるということだった。そしてなぜか、その落語教室にはやけにとんがった黒猫みたいな女性十河五月、こてこての関西弁小学生村林優、元プロ野球選手湯河原太一なども加わって、人数だけは増えてしまう。だが、対人恐怖症の良といい、とんがった口しかきかない十河といい、生意気な口をきいてはいるがクラスでは苛められているらしい村林といい、悪役のくせに人の気持ちを気にしすぎる湯河原と言い、一筋縄ではいかない連中ばかり。しかも、三つ葉自身、むやみにもっていた自信を喪失し、ひそかに憧れていた女性には失恋するしで、全然うまいこといかない。
 人前でしゃべるどころか、普通の会話さえできないような連中が、ただただ集まって落語をおぼえるだけで……すぐにはなんとかなるわけないのである。彼らがうまくしゃれべれないのには理由があって、落語を覚えることでそれを克服することができるのかどうか……それは読んでのお楽しみとして。癖のある連中があれこれケチをつけながら、それでも一生懸命に生きている姿がいい。
 読後感のすがすがしさはぴか一。気持ちのよい小説である。




オススメ本リストへ