わが子を信じてやらなくてどうするのだと思う。わが子を信じることが親の務めだとも思う。しかし私は悪い想像をやめられない。
          
  「世界の終り、あるいは始まり」 歌野昌午 角川文庫

 東京近郊で発生した連続誘拐殺人事件。犯人の要求額がごく少額なこと、身代金受け渡し前に誘拐された子どもが射殺されていたことなどから、同一犯の可能性が高い。近所の子どもが誘拐され、殺されたとき、わが子でなかったことにほっとした富樫修は、しかしその後、自分の小学校6年生の息子、雄介こそが犯人ではないかという疑惑にかられる。そんなまさか。――だがその疑惑が確信にかわったとき、富樫の頭をよぎったのは……
 というわけで、ネタばれになるのでこれ以上書けないとなると実は何も書けないのだが、次から次に富樫の頭によぎる恐怖、逃避、保身の思い。
 私たちの育て方のどこに問題があったというのだ。
 確かに私は雄介に「人を殺してはいけない」と言って聞かせたことはない。言うまでもないほどあたりまえのことだからだ。人を殺してはいけないということは、私だけの常識ではないと思う(略)。
 小動物を殺すなとは教えるが、人を殺すなとは教えないだろう。
 人を殴るなとは教えても、人を殺すなとは教えないだろう。
 だが、現実に息子は人を殺してしまった。ならば、人を殺すなと教えなかった親の責任だといわれて逃れようがあるだろうか? でもだからといって、いったいどうすればよかったんだ……と、ときに開き直り、ときに落ち込み、ときには雄介との死までをも考えながら、富樫は自分自身と向き合っていく。
 ラストがこれでいいのかという話はあると思うが(っていうか、わたしはそう思いました。ここまできてコレかよ! って)、そういうことを含めて衝撃の問題作であることは間違いない。



オススメ本リストへ