<そのことの意味を……あなたはわかっているのですか?>
                           
  「紫の砂漠」 松村栄子 ハルキ文庫

 塩の村の子ども、シェプシは紫の砂漠が大好きだった。遥かかなたの地平線まで、ただただ広がる紫の砂漠(デゼール・ヴィオレ)。何かがシェプシを呼んでいる気がして、シェプシはいつも砂漠を眺めながら時を過ごす。
 「紫の砂漠」で描かれる世界では、ひとは七歳になるまでは生まれた村で育つ。七歳になったらいっせいに聞く神のもとに集められ、告げる神によって運命の親のもとに預けられる。運命の子は七年間、いろいろな仕事を覚えながら成長し、次の七年間は働き手となって運命の親たちに恩返しをしなければならない。それが終わってようやく独立し、自由になる(とはいえ大抵は習いおぼえた運命の親の元での仕事を続ける)。そして……そのうちのいつか、「真実の恋」をする。
 真実の恋。子どもたちは性を持たない。真実の恋に出合ったとき、ひとは初めて生む性と守る性に分化する。だから、真実の恋に出合えないもの、真実の恋の相手を失ってしまった者は半端者。たとえば、シェプシを含む七歳の子どもたちを聞く神のもと、書記の町へと連れていってくれる「詩人」もそのひとりだ。シェプシにとってはだれよりも美しく優美に見える詩人だけれど、そのあまりの心の硬さによって真実の恋を知らない詩人。
 この物語は、塩の村のシェプシ、とがった耳をもつ人々の中でただひとり、風変わりな丸い耳をもつ幼い子どもが、運命の旅の途中、世界のことを自分なりに少しずつ知り、成長してゆく、そういう物語である。ついに耐えきれず紫の砂漠に足を踏み入れたシェプシが知ったこの世界の真実とはなんだったのか。せつないまでに美しく、どこか儚ささえも感じせる佳品である。 

 ところで、松村栄子の作品「僕はかぐや姫」にこのような台詞がある。主人公千田裕生が同級生の女の子が好きなのだ、ということを説明する場面。
「あのね、男とか女とかじゃないと思うのよね。好きになる人をさ、性別で最初から二分の一に限定しちゃうのって失礼だと思う」
「?」
「つまりね、地球上に四十億人の人間がいるとするじゃない? 恋人は四十億人の中から選ばれるの。たまたま男の子に生まれたり女の子に生まれたからってことで、一次試験をパスして二十億分の一の確率にはならないの。その方が愛情に価値があるでしょ」


 「紫の砂漠」の真実の恋は、まさしくこの価値のある愛情を描いたものなのかもしれない、とふと思った。



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