「あたしにできるのは、ずっと気がつかないふりをしてあげることだけよ」
                       「鬼の橋」 伊藤 遊 福音館

 主人公が小野篁だと知ったとき、正直、なんだこれは? と思った。しかしこれは篁が冥界に出入りしていたという伝説に基づいてはいるが、いわゆる歴史小説ではなく、まったくのオリジナルな物語、ファンタジーだ。
 最愛の妹・比右子をみずからの過失で失ってしまった篁が知り合うことになった少女、阿子那。そして角を失った鬼、非天丸。物語はこの三人を中心に展開してゆく。
 角のない非天丸はかつての力を失い、記憶すら奪われている。そんな彼を慕い、また見守っている阿子那のありようは驚くほど純粋でひたむきだ。そして、阿子那がそのように純粋であるからこそ……非天丸は己の鬼の本性を恥じ、ひたすらに隠そうとする。火で煮炊きしたものは食べられないのに無理に食べ物を飲み込み、あとで吐き出す非天丸。眠っている阿子那を見つめ、よだれとともに涙を流す非天丸。その姿は壮絶なほどに痛ましい。そしてそれゆえに、そんな非天丸に気づかないふりをしていようと決意する阿子那のこころの美しさには胸打たれずにはいられない。
 われわれはだれしもが鬼になる可能性を持っている。比右子を失った篁も、おそらくは心の中に深い闇を持つ鬼だったのだ。けれど阿子那との出会いによって、篁は鬼から人間へとなってゆく。非天丸がそうであったように。
「鬼の橋」。鬼とは、橋とはなんだろうか。深く考えることのできる佳品である。


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