「あのさ、俺さ、百五十年生きることにした」突然トキタさんが言った。
「百五十年?」
「そのくらい生きていればさ、あなたといつも一緒にいられる機会もくるだろうしさ」
         
「冬一日」 (「おめでとう」所収)川上弘美 新潮文庫

 いつも昼間、一時間半の逢瀬を重ねるふたりの男女が、ある冬の一日、いつもと違う時間を過ごす。いつも同じ時間、同じ場所、同じおこないをしていたふたりは、初めてのことに途惑い、ぎこちない。ともに家庭を持つ身である。いつもの逢瀬よりも何倍もの嘘をついて家を出てきて、ふたりはトキタさんの弟の家で、ふたりきり、鍋を囲む。買出しから帰ってきたトキタさんを「おかえりなさい」と迎えてしまい、動悸がする。「ただいま」と小さな声で答えたトキタさんと、少しの間、しんと、顔を見あわせてしまう。
 恋愛小説集、になるのだろうか。そこは川上弘美なので、なんだかちょっとずれた会話が、けれど、やけにリアルだったりする物語となっている。別れた男と再会し、けれど相手のことをどんな風に好きだったのかぜんぜん思い出せないことに愕然とする。こうやって会う直前までは、その気持ちを隅から隅まで知っていたはずなのに、と。男に騙されて、けれど、その騙されている間にいろんなものをもらったなあと思う女。騙すことが仕事の男だったとしても、たしかにくれたような気がする――目に見えないいろんなもの、目に見えないけどなんだかほかほかするものを。
 生き方が不器用だというのとも違う。朴訥、というのでもないだろう。ずれている? そう片付けてしまうのも何だかいやだ。男と抱き合いながら、鍋の火を気にする女。生活感があるというのも一面的だし――川上弘美的とでもいおうか。
 しかし、こういう女はきっといる。わたしの周囲にも、もしかしたらわたし自身の中にも。



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