与市は目からこぼれる涙をぬぐいつつ、頭の隅では妙に冷めて考えていた。ほかの連中もきっと同じ思いであるに違いない。
 似せ者とわかっていながら、人はそっくりな男を見てなぜこんなにも心が騒ぐのだろうか。
               
    「似せ者」松井今朝子  講談社文庫

 人気役者坂田藤十郎の死後、京の芝居はめっきり客足が冷え、藤十郎の世話役の番頭だった与市の実入りも減ってしまった。そこで与市は、藤十郎の真似をしていた旅回りの田舎役者を、二代目藤十郎として迎え入れようと画策する。だがそれは、京の芝居を盛りたてるため……という建前どおりのことだったか。自分の稼ぎのためだろうか。ふたたび藤十郎を見たいという思いだったからか。それとも……姿かたちこそ似てはいても、気の弱い男を叱りつけるとき、先代への恨みを果たしているような気分になるからだろうか。いや、先代へは恩を感じこそすれ、恨みなどはなかろうものを……
 短編集。
 物語の中ではもちろん主役ではあるが、その者たちの生きる世界では脇役。そんな人々を描いた作品集である。華やかな役者を支える番頭。主役を盛り立てる敵役。わがままな師に振りまわされる弟子。彼らはぱっと目立たない位置にいながら、それぞれに悩み、憤り、喜び、そして生きている。
 この短編集の最後に収められている「心残して」は芝居の囃子方に勤める三味線弾きの巳三次を主人公にしているが、そもそも囃子方が芝居の脇である上に、物語もまた、巳三次と不思議な縁で関わってくる旗本の次男坊、神尾左京の数奇な運命のほうが華々しく、波乱に富んだものとなっている。だが、脇から見ているからこそ、見えてくる世の流れ、人の生き方というものがあるのだ。
 地に足のついた時代小説。かなりオススメです。




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