「チェス盤の中にいれば、飛行機なんかに乗るよりずっと遠いところまで旅ができるよ」
          
   「猫を抱いて象と泳ぐ」 小川洋子  文藝春秋

 これは、リトル・アリョーヒンと呼ばれた伝説的なチェスプレイヤーの物語である。生まれた時、上唇と下唇がくっついていた少年は、長じてのちも寡黙だった。しかし彼が饒舌になる瞬間もあったのだ。それは眠りにつく前のひととき、かつて壁の隙間に入ったまま死んでしまい、ミイラになってしまったという少女に語りかけるとき。デパートの屋上に連れてこられ、そのまま下りることができなくなってしまった象のインディラについて語るとき。少年の友は返事をすることのない死者であり、だからこそ、ある朝、プールに浮かぶ溺死体を発見した彼は、友として――死者の勤めていたバス会社を訪れたのだ。そして、そこで彼を待っていたのが、古びたバスの中に住む「マスター」、少年にチェスを最初に教えてくれた人物だった。
 八×八の盤上に広がる、広い広い世界。彼はチェスをすると同時に、インディラとともに海底へともぐっていた。美しく華麗なその世界を彼はこよなく愛したが、彼がチェスの海にもぐるためには、盤下で駒音に耳を傾け、集中する必要があった。会員制のチェス倶楽部からは無作法だと咎められたが、彼のその技術こそ、海底チェスクラブの趣向、人形とのチェスにぴったりのものだったのだ。彼は人形“リトル・アリョーヒン”を操り、さまざまな人とチェスを打つが……
 チェスと限らず、将棋や囲碁、オセロなどに深い造詣があって、プレイそのものに詩を感じることのできる人が読めば、きっともっともっと感動できるんだろうなあ……と思ってしまった。とはいえ、リトル・アリョーヒン(人形の名でありながら、彼自身の呼び名でもある)の生き方そのものも、深遠で美しい。狭い狭い場所で生きた彼は、おそらく誰よりも広い世界を知っていたに違いない。
 



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