ある時点で私たちは、自分に見えているものが周りにいるほとんどの人たちには見えていないことを知り、自分の知覚様式が、もっとも好意的にとらえられたとしても「想像力豊か」、最悪の場合は「いかれている」、もしくは怪しいと受け取られることさえあると知る。
        
 「ねこは青、子ねこは黄緑」 パトリシア・リン・ダフィー(石田理恵訳) 早川書房

 副題には「共感覚者が自ら語る不思議な世界」とある。共感覚者、という言葉をご存知だっただろうか。
 著者であるパトリシア・リン・ダフィーが、自分と周囲の人が異なるのだということを知ったのは十六歳のときだった。彼女はふと、アルファベットを書く練習をしていた子どもの頃のことを思い出して、父にいう。
「でも、ある日突然気付いたの。Rを書くにはまずPを書いて、ループの端から斜め下に向かって一本、棒を書けばいいってことに。驚いたわ。だって、棒を一本書き加えるだけで、黄色の文字がオレンジ色に変わるんですもの」
「黄色の文字? オレンジの文字? いったい何のことだ?」

 彼女にとって記憶にあるかぎりいつも、アルファベットはそれぞれ違う色をしていた。単語もそれぞれ違う色をしているし、数字にももちろん色がついていた。そして彼女は、世界中の誰もが当然、自分と同じように知覚しているものとばかり思っていたのだ。しかし父との会話でそのときようやく、彼女は自分が二千人に一人の割合で発現する共感覚者であること……「他の人とは違う」ことの一端を垣間見たのだ。
 共感覚者とは、互換のうち一つが刺激されると、その感覚に加えてもう一つ別の感覚も反応するという現象である。ということで、音に色が見え、文字に味を感じ、痛みから不思議な映像を見る。多くの作家や画家も持っていたといわれながら、学問的にも未知な分野であるこの共感覚について、共感覚者本人が語る手記。
 手探りで自分と同じ症状を知ろうと文献を捜し求め、同じ共感覚者同士で、あなたの色は薄いんじゃないの、なんてことまでいいあえるようになってゆく喜び。
 誰もが同じものを見て、同じように感じているわけではない、ということを、彼らほどにはっきりと思い知らされている者たちは少ないだろう。ひとりひとりは違っていてもいいんだ、とか、誰もがただひとりの自分なんだ、なんて台詞が、現実に手で触れられるほど生々しく存在するときに、他の多くの人たちと同じものを同じように見ている者からのそのような台詞はなんの慰めにもならない。だが、彼らが自らの特異性を受け入れたとき、その世界のなんと生き生きとしてうらやましいほどに鮮やかなことか。解説、養老孟司。



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