「花ちゃんが好きじゃなくたって、花ちゃんを好きな人は大勢いるよ。みんな花ちゃんのことが大好きだよ。俺もそのひとりだけど」
 そのとき花子ははっきり信じたのだ。自分はやっぱり人間ではなかったのだ、と。
                  
  「霧笛荘夜話」 浅田次郎 角川書店

 暗い運河のほとりにある、古ぼけた建物、霧笛荘。物語は、これから霧笛荘に住もうとする「誰か」に対して、大家が部屋を見せて歩きながら、それぞれの部屋にまつわる逸話を語る形式ですすめられる。
 自殺未遂のホステス、家出をした名家の妻、頭の足りないチンピラ、夢を抱えて田舎から出てきたギタリスト……彼らは互いの物語にもさまざまに関わってくる。主人公であり、脇役だから。そして彼らのいまの姿には、そうなっただけの理由があるのだ。そんな過去を、彼らは決して語らず、詮索しようともしないけれど……
 連作短編集。
 貧しい暮らしの中で、必死に生きる人々。大家である老婆はいう。
「みんないいやつらだった。たしかに無一文で、偏屈で、ちょいと頭がおかしかったけどね。でも世の中の上と下をひっくり返したら、どいつもひとかどの人物にはちがいない」
 頭のいい人々が中心になる世の中では、彼らはほんのひとかけらの視線すら与えられない人々かもしれない。けれど、そんな彼らが彼らなりの優しさや信念で生きる姿のすがすがしさと強さ。
 浅田次郎らしい……といっていいだろうか。優しさの感じられる、切ない本である。




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