「読者がいなかったら、物語は生命を持たない。吹きすぎる風と変わりはしない。読まれることによって、物語は大地に根をはり、幹は天にむかって聳え、梢は八方に広がる。しかしまた、作者は読者を選びもするのだよ」
                 
 「薔薇密室」 皆川博子 講談社

 ひとつの物語は、このように始まる。
「北方ゲルマンの血がまじるゆえに私の眼は虚ろな洞のように碧い。先端がやや上を向いた太く短めな鼻梁は、私に流れるスラヴの血の濃さをあらわしている。」
 
幼くして悖徳の悦楽と同時に銅版画の魅力に取りつかれたコンラートは、1914年の戦争中、ラオレンツ・ホフマン博士と出会う。指導教官に手柄を横取りされ、他の研究者に先を越されるという逆境の中、ホフマン博士は密かに自分だけの研究を続けていた。薔薇と人間との融合――コンラートが連れてきた瀕死の士官と美しい薔薇を融合させ、薔薇の若者、ローゼン・ユングリングを生み出そうという博士にコンラートは従うことを決意する。だが、オーディンと名づけられた<薔薇の若者>は、脳が傷つけられていたのか、コンラートに話しかけてくることはないのだった。むしろ失敗作とされ、薔薇も、人としての身体も朽ち果てたヨリンゲルのほうが、コンラートの脳に向かって直接話しかけてくるのだ。
 もうひとつの物語は、グロース・シュトゥム、大きな唖と呼ばれる男の話だ。偽の唖者を装う彼は、<美しい劣等体>と呼ばれる子どもたちとともに暮らしている。ひとつの下半身がふたつの上半身を支える、アルベルトとベンハルト(そして、下半身のクリストフ)、天使のように美しく、か弱いエンゲル、そして外見上はまるで欠陥のない、小さな唖、クライン・シュトゥム。彼らはかつてホフマン博士の薔薇園だったところで暮らしている。そして彼は出会うのだ。「北方ゲルマンの血が混じるゆえに…」で始まる、不思議な男の物語に。
 そして、さらにもうひとつの物語は、ポーランド人の少女、ミルカのものだ。戦争が激しくなり、さまざまな物資が欠乏し、ポーランド人であるというだけで勉学の機会さえも奪われたミルカは、それでも地下教室に通い、年下の男の子、ユーリクと知り合い、淡い恋心を抱く。しかしある日、ミルカはユーリクが、自分がもっと幼いときに知り合った年上の少年ではないかという疑いを抱く。そして、自分をかばったユーリクが暴行罪で逮捕されたとき、ミルカはその疑いを、同じ家に住むホフマンさんに話してしまう。だが、身分証明書の年齢は二十七歳でありながら、十歳前後の子どもにしか見えないユーリクのことを心配している時間はなかった。ミルカの父がテロ組織の主犯として捕らえられ、母もまた逮捕されてしまったのだ。ホフマンの厚意にすがるしかなくなったミルカだが、それはホフマンの創る物語に引きずり込まれることに他ならなかった。
 難しいタイトルの本の中に書かれた手書きの物語。それに惹きつけられ、その物語を読み進めることで、自分もまた新たな物語を作ってゆく。ここにあるのは、「薔薇密室」というタイトルのとおり、薔薇の僧院に閉じ込められた人々の、失われた時間の物語だ。
 だが一方でこれは、青いリボンの物語だということもできるだろう。ワルシャワの街をガイドする、若い女性の首に巻かれた青い細いリボン。洗い晒したように色があせ、よれよれになったリボンを彼女が誇らしげにつけている理由が語られている。



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