「きみは、ほんの坊やだよ」これが、彼の好んで口にした言葉だ。「自分が、クズだってことがわかっちゃいない。なんて、マヌケなんだ! なんて、アホウなんだ! きみには、なんにもできやしないよ」
        
 「ビューティフル・マインド」 シルヴィア・アーサー(塩川優訳) 新潮社

 ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア――数学の天才で、合理的行動理論を発見し、思考する機械を夢想した男――は同じ数学者である見舞い客を前に、30分近くも無言で座っていた。
 こうして、この伝記は幕を開ける。映画かもされたのでご存知の方も多い、ノーベル賞(経済学賞)受賞者であり、深刻な精神分裂病から奇跡の復活を遂げたナッシュの生涯(といってもまだ生きているのだが)である。
 映画をご覧になっていないかたもいると思われるのだが、わたしは観ているので……実はこの本から映画が作られたとしたら、ほんとに「ビューティフル」に作ったんだなあ、と思ってしまったのであった。
 ナッシュは鼻持ちならないあくたれで、他人を見下し、手に負えないひどいいたずらを仕掛けることに熱心で、その性格のために逃した栄光さえあり、同性愛傾向があり複数の男性と情緒的・性的関係を持ち、子どもまで成した愛人のことは彼女が身分的にも学歴的にも低いことから経済的援助も子どもの認知も一切せず、それでいてセックスと子どもとのふれあいだけは求め……と、数学的にはすごい人だったのかもしれないが、性格的にはかなり最低のやつなのである。彼の精神病発病のきっかけは数学的難問を解けなかったことと若い男性への実らない恋のせいであるという説もあるそうだが、当時の妻アリシアは彼を入院させたことで周囲の冷たい非難を浴び、苦しい生活の中でそのような意見と必死に闘わねばならない。だが、病気が何年も続くと、そんな彼女もついにナッシュとの離婚に踏み切る(ノーベル賞受賞時点では離婚したまま。再婚を考えている、というが、現在どうなっているのかは不明)。離婚はしたが、他にナッシュの面倒を見る人がいないので仕方なくずるずるつきあっているうちに快復した……という風に読めなくもないのだが(ナッシュと別れたあとアリシア自身が精神障害をわずらったのも、ナッシュとふたたび同居した理由の一つであるらしい)、とりあえず、ナッシュの快復は奇跡であり、謎である。こうじゃないか、ああじゃないか、という理由はいくつか述べられているのだが(ちなみにナッシュとアリシアの息子も妄想型精神分裂症なので、ナッシュが精神分裂病であることは間違いないらしい)、正確なところはわからないのだ。
 さて、そんな本書は「読み終えるのに三枚のハンカチを必要とする、数少ない科学的伝記である」らしい。だが、相当涙もろいわたしであるが、楽しく読めたけれど泣けなかった。数学者同士のやりとりなどは、わけがわからないなりに興味深く面白かったのだけれど、やはり何かをつかみそこねていて、もしかしたら理系の人なら泣けるのだろうか。誰か、これを読んで泣けた人……三枚のハンカチを使うほどに泣けたのはどこか、こっそり教えてください。



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