「頼みましたよ」
 ぽん、ときわめて自然な所作で肩を叩かれた。なんだか無性に嬉しくなった。
「頼まれました」
 つい笑顔で応じていた。
            
    「天地明察」冲方丁  角川書店

 物語は、貞享元年三月三日の開暦の儀から始まる。大統歴、授時歴、大和歴。この三歴のうち帝が採用するのはどの暦なのか。日本中が注目する中、渋川春海はこの上なく幸せな心持ちで座っていた。二十二年間、ひたすら、改暦のために費やしてきた。それはつらく長い事業であると同時に、至福の時間でもあったのだ。
 渋川春海とは、己のつけた名である。公の名を安井算哲という。将軍家の御前で上覧碁を打つ碁打ちだが、春海の興味は囲碁にとどまらず、算術、歴術、測量といった多方面に渡っていた。特に算術に関しては、神社に奉納された絵馬に書かれた問題を解くことに夢中になるあまり、地べたに座り込んで時間を忘れるほどである。そんな春海の目を引いたのは、自分が時間をかけなければ解けない問いを、一瞥で解答したとしか思えない「関」という人物の解だった。聞けば、自分と同じ年であるという。関孝和というその人物に、いつか自分の作った問いを解いてもらいたいという願いから精進する春海だが、一方で、碁会にも出ねばならず、碁の名門本因坊家の天才、本因坊道策から妙にライバル視され、そろばん三昧で碁に身を入れないことを叱られてばかり。しかも、春海に指導碁を指名してくる老中酒井忠清には、なにやら別の思惑がある様子である。
 多くの人に見込まれ、叱られる才の持ち主でありながら、春海は決しておごることはない。むしろ、恐縮し、ひたむきに尽くし、しあわせを感じて生きている。というより、正確にいえば、自分が見込まれていることにさえ気づいていない。いつだって自然体。誤った問題を出してしまったことで腹を切る寸前まで落ち込みながらも、新しい学びに出会えば、いつか楽しくて楽しくて仕方ないという心境になっている。そんな春海だからこそ、いつ終わるとも知れぬ世紀の大事業に取り組むことができたのだし、多くの人から期待もされたのである。
 冲方丁、初の時代小説。合戦もなく、武士も出ず、恋愛っぽいところも少なく、いってみれば、算術好きの男が、ひたすらに暦をつくる話である。しかしこれが、とにかくおもしろい。そしてまた、春海の周囲にいる人々もまたやたらおもしろいのである。老いてもなお新しいことを学びたいと願い、新しい発見に出会うたびに子どものように喜ぶ人々。学びの基本が、ここにある。
 2010年度本屋大賞ノミネート作品。他の賞も獲れるんじゃないか、これ。イチオシ。

 あ、といっていたら、吉川英治新人文学賞とりましたね。やっぱり!




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