波打ち際を歩いていて、一際目を引く浮遊物を発見したとしても、不用意に拾うのはよしたほうがいい。手に取った瞬間、漂着物は自らのドラマを語り始める。
                  
 「仄暗い水の底から」  鈴木光司  角川ホラー文庫

 水の底にはなにがある?
 格安のマンションに引っ越してきた淑美は娘とのふたり暮し。だが、ある晩、屋上で子どもが持つようなバックを見つけたことから、身のまわりに不思議を感じはじめる。風呂場で独り言を話す娘。二階で自然に止まったエレベーター。かつて「不幸があって」引っ越していったという二階の住人には、いったい何が起こったのだろう……――
 クルーザーを止めたのは何か。家出をした妻はどこにいるのか。幽霊船……そんなものが、ほんとうに存在するのだろうか。次々に描かれる怪異は、たしかにホラー文庫という名に相応しく、おどろおどろしく、暗い。
 しかし、最後の作品「海に沈む森」だけはどこか様相を異にしているようにも感じられる。
 三十一歳。二年半前に長男が生まれ、いままたふたり目の子が妻の腹に宿った今、以前よりも冒険心の薄くなったことを自覚している杉山。どこか危機感や注意力に欠ける榊原とともに出かけた洞窟探険で、湧き上がった冒険心に身を任せてしまった結果……究極の選択を迫られることになる。成功すれば生きのびられる。だが、一歩誤れば、死。しかもそれは、おそらくは人間が味わうであろう苦痛がすべて凝縮されたような一瞬であるはずだ。自分にそれを選ぶ勇気があるか? 迷いつづけた杉山を決意させたもの、そして、彼が水に託したものとは。
 東京湾を舞台にした短編集。波打ち際の漂着物にも似て、それぞれが己のドラマを語り始める。そして、プロローグで謎めいて語られた流れ着いた「宝物」が何かを知ったとき、人にはひとつずつの人生というドラマがあるのだと――大袈裟な言葉でいえば、そんなことを、思った。ここで語られるのは、そういう物語たちだ。



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