「なんじが聖人の弟子であるなら、ひとりでも多くの人を救うことをこころがけよ。賈では人を救えないとおもえば、賈を棄ててもかまわぬ。わたしに恩義を感じるあまり、自身でみつけた道を歩きそこなってはならない」
     
         「奇貨居くべし」 宮城谷昌光 中公文庫

 韓の国で商人の次男として生まれた呂不韋は、無口な父、血のつながらない母と兄弟になじめないものを感じ、愛情の偏在やいわれのない不遇、将来の見通しのなさなどのために身動きのできないほどの暗さ、哀しさを感じていた。父にいいつけられ、店員のひとり鮮乙とともに山に入ったときも、体よく棄てられたのではないかと怯え、一方ではこんな家からは逃げてやろうと思いもし、心は千々に乱れていた。だが、そんな不韋が楚の国宝である和氏の璧を手に入れたことから、彼は思いもかけない運命へと導かれてゆく。
 閉ざされた家の中で鬱々としていた少年が、広い世界と出会い、さまざまな人と出会ったことで、彼の中に眠っていた徳性を活かし、多くの人に信頼される人物へと成長していくさまを描いた作品。秦の始皇帝の父ともいわれる呂不韋の運命は波乱に満ちている。ほんの少年時代から、運命に翻弄されるかのように、韓、魏、趙、秦、楚と各国を渡り歩き、戦国乱世の英俊と出会ってゆくのだが、相手が大人物であるために(唐挙や孟嘗君の話などは、それだけでも面白いわけだし)スケールが大きくて面白く、全5巻はまるで苦ではない。最初のうちこそ慣れない中国の国名やら人名やらにとまどってしまったのだが、読んでいくうちにスピードアップして、ほとんどあっという間に5巻読み終えてしまった、という感じである。
 どんなことも、相手をどれだけ信じることができるのか、自分をどれだけ信じてもらえるのかという点にかかっている。その点、呂不韋と最後までわかりあうことのできない人物の存在が、ある意味ではぴりりとした色をつけているといってよい。彼はわたしなのかもしれない、という不韋の言葉は、人と人との関係の不思議をあらわしているようにも思えてならない。



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