<そうだよ>シラヒゲがくりかえした。<恋と冒険があった>
           
「蚊トンボ白鬚の冒険」 藤原伊織  講談社

 パチンコ屋からの帰り道、倉沢達夫は耳鳴りのような羽音を聞いた。なんだろうと思う間もなく、横手の路地から聞いたことのあるような声がするのを耳にする。同じアパートの住人、黒木がカツアゲにあっている場面に出くわしたのだ。無視するのもなんだからとりあえず警察に電話でも……と思っていた自分の手が、その気さえまったくないのに勝手に、ごく自然に動いて、ポケットに入っていたパチンコ玉を取り出して弾いていた。十メートルも先の標的に命中する、そんな力がいままでの自分にあっただろうか? ――それが、達夫が自分の中にいる蚊トンボ、シラヒゲを自覚するきっかけとなった出来事である。
 頭の中に飛び込んできた蚊トンボが人間のことばを喋り、自らを人間の筋肉の専門家と称して達夫の身体能力をコントロールする。このあり得ないことが中心になっているがゆえに……おもしろい。
 物語は、ふとしたことがきっかけで単なる隣の部屋の住人であった黒木が関わる事件に巻き込まれた達夫が、シラヒゲの力を借りながらヤクザたちと闘ってゆく……とそういう話になってゆくのだが、飄々とした語り口のシラヒゲ、眩しいくらいに真っ直ぐな青年達夫のふたり(なんだろう、やっぱり)のおかげで、重苦しさはさほどない。
 実は藤原伊織作品はほとんど読んでいるのだが、いまいち好きになれなかった。登場人物があまりにも暗すぎるように感じられたせいだろうか。だから、今回も帯の
「心に闇を抱え、傷ついた者たちの凄絶な戦いが始まる!  裏社会の経済戦争に巻き込まれ、年上の恋人・真紀がさらわれた――」
 なんてのを眺めただけで、実はあまり読む気がしなかった。長いこと積読にしておいて、ふと手にとったら……あらまあ、こんなにおもしろいとは(笑)。
 若さがまぶしい、という言葉が出てくるが、達夫の若さがまぶしい。蚊トンボがいることによって、読者もあるときはシラヒゲになって、達夫を応援できるところもいいのだろう。藤原伊織、この作品であざやなか跳躍を見せたように思う。最近読んだ本の中では絶対のオススメである。



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