考えるのは、いつになったら解放されるのかという未来じゃない。自分の中にしまわれている過去、未来がどうあろうと決して損なわれない過去だ。それをそっと取り出し、掌で温め、言葉の舟に乗せる。その舟が立てる水音に耳を澄ませる。
                 
 「人質の朗読会」小川洋子 中央公論新社

 地球の裏側で、ある旅行社が企画したツアーバスが反政府ゲリラの襲撃を受け、運転手を除く八人の日本人が拉致された。遠く離れた地からの情報は少なく、人々の関心も薄れたころ、軍と警察の特殊部隊による突入で犯人グループは全員射殺、人質も全員が死亡というニュースが伝えられた。残されたのは、焼け焦げ、小さな破片となった木片に刻まれた文章の一部。彼らが何のために、針やヘアピンで文字を刻んだのか……それがわかるのは二年後のことである。人々が拉致監禁された小屋に仕掛けられた盗聴テープが公開されたのだ。そこに残されていたのは、人質の八人が自ら書いた話を朗読する声。
 子どもの頃の思い出。世界が不思議にあふれ、よくわからないこともたくさんあるのに、それさえもよくわからない子どもの話。自分とはまったく違うタイプの人とのふれあいをつづる物語。いまの自分をつくることになった大切な過去。ささやかだけれど、大切な思い出。朗読に耳を澄ませるのは、人質たちと見張り役の犯人、そして日本語がわからないままに盗聴器のヘッドフォンに耳をあてていた特殊部隊の隊員。
 物語は人質たち八人の朗読に加えて、特殊部隊の隊員の朗読で終わる。意味のわからない日本語の朗読を、彼はどのような気持ちで聴いていたのか。人質たちと同じように、彼自身の過去が語られることで、いまの彼の気持ちがわかる。
 人質たちがそれぞれの物語を語る形式になっているため、連作短編集のようでもある。けれど、あるひとつの特殊な状況が与えられたことで、彼らの語る物語の静けさや深みといったものが伝わってくる。しみじみと感動できる佳品である。



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