しかし平田の心から棘は抜けなかった。棘は一本ではなかったのだ。
              
 「春から夏、やがて冬」歌野昌午  文藝春秋

 魚のにおいのする地方都市のスーパーで保安員を務める平田は、ある日、貧しそうな身なりをした二十代前半の万引き犯を見逃してやった。娘を亡くした過去を持つ平田にとって、娘と同い年である……ただそれだけで、なにか見捨てられないような気持ちになってしまうからだ。しかし、ただ一度かかわっただけの万引き犯、末永ますみと平田は、その後も何度か偶然の出会いを重ね、平田はますみが同居している男から暴力をふるわれていることを知り、ますみは平田が娘を亡くしたことを知る。行きずりの相手だからこそ口にできた過去や本音。ふたりは少しずつ距離を縮めてゆくが……
 多くを書くとネタばれになってしまうので書けないが、娘を亡くした平田の中には深く昏い闇がある。平田自身をも食いつくすほどに大きなその闇がいかにして生じたのか……物語は、娘を喪った平田一家がたどった道のりを振り返ることで、そして現在の平田の生活を淡々と描き出すことで、その闇の姿をあぶりだす。とはいえ、ふだんの生活でそれが表に出てくることはほとんどない。そこにもまた、ひとつの闇の姿がある。
 帯にもあるように、最後の最後、なにもかもが終わった後に、物語が反転する。しかしそこにあるのが驚きよりも静かな諦念のように思えるのはなぜだろう。
 第146回直木賞候補作。たしかにこれでは『蜩の記』には勝てないけど、歌野昌午らしさがある、といえばあったのかなあ……




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