「たれやらは、花の下にて春死なん、と詠んだが、われらも滝ツ瀬の落花のもと、音無き音を聞きつつ果てれば、幸いである」
             
「花車」(「秘剣花車」所収) 戸部新十郎 新潮文庫

 兵法数奇で知られる豊臣秀次は、自らの身にせまりくる運命の足音を確かに耳にしていた。秀次をよい後継者にと望んでいた秀吉だったが、<お拾い(秀頼)>が生まれたことで、秀次が邪魔な存在になってしまったからだ。迫り来る危機。だがそれを知らぬ風に、秀次はその生き方を変えようとはしない。そしてその春、秀次は大きな立合を企図していた。上泉伊勢守の高弟であり疋田陰流をひらいた疋田文五郎と、中条流御三家の随一と称される長谷川宗喜のふたりの立合である。とはいえ、それぞれが九州の旅先と越前の山中でいった「桜の咲くころ、参上すべし」という文言は、見事にその時期をすれ違わせ、彼らが互いに立合うことはなかった。もちろん、彼らはやはりそれぞれに見事な技を見せるのだが。が、なにより秀次が気にとめたのは「花車」という言葉。花に埋もれて死ぬる、という剣。それはいったいどのような剣なのか。己の死をひしひしと感じつつ日々を過ごす秀次は、次第に花車にひかれてゆく――
 短編集。それぞれに剣を極めようとし、剣の道に憑かれた者たちの物語である。極めすぎて一見、剣の道からは離れて暮らしているような存在も多く描かれてあり、まるで中島敦の「名人伝」すら思わせる作品が多い。その飄々としたすがすがしさ。
 世に時代小説、剣豪小説は数多くあるのだが、戸部新十郎の使い手たちはみな非常にリアルな動きをする。これはわたしが剣道をしているから感じるのではなく、おそらく誰もが感じられるものであると思うのだが、文章のあいだから呼吸や足さばき、小手の弾かれる反動などが伝わってくるのである。それもそのはず、無外流居合道五段、剣道四段なのだとか。これくらい強いと気持ちいいだろうなあ――などと思ってしまうのはわたしだけか。



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