なぜ、生まれる。なぜ、生きる。問うても決して答えはでない。おそらく無数の人が同じ問いをもち、寂寥に苛まれ、しかし、問おうと問うまいと、死ぬまで生きつづけることに変わりはないから、無視し、忘れる。
        
     「冬の旅人」 皆川博子  講談社文庫

 江戸が東京と名を変えたときには五歳。裕福な骨董賞の家に育ち、時代の流れを肌で感じながら生きる少女環は、幼い頃に見た西洋画に心奪われ、渋る両親を説得して西洋画を学びはじめた。のちに父が破産し、彼女を内弟子にとってくれた主から幼い身体を蹂躙されてしまったときにも、環の胸の中にはつねに一枚の西洋画があり、画に対する強い想いがあった。一方、環の異母妹である花乃は露西亜人の妻となり、環と花乃のふたりは思いもかけないなりゆきから露西亜へと海を渡ることになる。ひとりは一等客室の乗客として、もうひとりは見知らぬものたちとの共同客室の乗客として。だが、運命が幼い頃とは立場を逆転させたのだとしても、環には花乃と張り合う気持ちはなかった。胸にあるのはただひとつ。己を魅了してやまない絵と同じ技法を学び、己の胸の中にあるものを絵にしたい、ただそれだけ。
 しかし、露西亜で環が学ばねばならなかったのは使う色も技法も限定された聖像画の模写であった。胸にある西洋画との違いに苦しみ、ついには窮屈な名門女学院を脱走した環は、貧民窟、そしてシベリアへと、運命の導くままに革命前夜の帝政露西亜をさまようことになる。
 絵は描きたい、だが画家になるつもりはない。ただただ描きたいだけなのだ――その想いはときには環を狂人じみた行動に走らせ、嘲笑、哀れみ、嫉妬の対象として、傷つけられ、守られ、無視されるという苛酷な運命をたどらせる。何かをひたすらに求めるということが純粋であるとは限らない。環自身が自覚しているように、その想いにはさまざまな醜い感情が混じっているからだ。だがそれでも、一心に求める環の姿には、清明な強さを見出さずにはいられない。
 露西亜革命という大きな時代の波を、ひとりの女性の運命の変遷と絡めて描いた壮大な歴史小説。上下二冊は決して長く感じられない。オススメ。




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