「あたしのこの手は魔術がやれるの。きっと神様の贈り物だから、活かさなくては」
                
「ニューヨーク」ベヴァリー・スワーリング(村上博基訳) 集英社

 1661年、ニューアムステルダム(のちのニューヨーク)にイギリス人の兄妹が到着した。イギリスからオランダを経てやってきたこの兄妹は、兄は床屋兼外科医、妹は調薬師を生業としていた。到着そうそう優れたメスの腕を披露して名をあげた兄のルーカスと、患者の痛みを和らげる薬を作ることで兄を支えるサリーは多くの人々に頼られるが、それも内科医のファン・デル・フリースが現れるまでだった。当時のしきたりでは内科医は外科よりも身分が高く、ルーカスが正しいと信じる処方も、ファン・デル・フリースの許可なくして行うことはできなかったのだ。患者をみすみす死なせるとわかっていて、ファン・デル・フリースの愚かな処方に従わざるを得ない兄妹の苦しみ。ところがそんなある日、妹のサリーがインディアンに襲撃され妊娠してしまう。その子どもをルーカスの子ではないかと疑ったファン・デル・フリースは、ルーカスを脅迫し、サリーを自分の妻として、アヘンを手に入れることを望む。そして人妻との不倫の恋のために大金を必要としていたルーカスは、金と引き換えにサリーをファン・デル・フリースに与えることを承諾する。この日から、多くの治療師を生み出した2つの家の確執が始まるのである。
 サリーが生んだインディアンの血をひく子どもは、さまざまな経緯があって兄ルーカスに育てられることになる。ただし、そのことをルーカスもサリーも知ることはない。サリーはのちにファン・デル・フリースとの間に生まれた子どもに、ルーカスの血をひく者を憎みつづけることを約束させるのだが、実際のところ憎む相手は自分の子どもである。この、互いに兄弟やいとこといった関係であるのにそれを知らず、しかもルーカスの養子にはインディアンの血が入っている……という事実が問題になるのは、サリーの孫や曾孫といった世代のことである。物語は主にこの孫や曾孫たちを中心とし、彼らが成長し、さらにその子どもたちとどう関わっていくか……というところまでが丹念に描かれている。
 成長と成熟とが同義語ではないように、ニューヨークも、医療技術も、家族の関係も、発展はするが同時に成熟することはない。ただし、人種の坩堝といわれるアメリカを象徴するかのように、サリーの子どもたちにはインディアンの血が流れ、ユダヤ人や黒人との結婚もある(本当は白人との間にできた子どもなのに、世間的には黒人との間に生まれたと認識されている子どもさえいる)。男たちがどんなに血の純潔に拘ろうと、女は逞しく生きていくし、医療に携わるのが男性だけだとされる時代にあって、密かに外科の技術を磨き、表向きは男のいいなりになりながら、いつでも力強い未来を信じている。
 この物語の作者が女性であることを考えて深読みをすれば、これは女性の物語ともいえる。
 サリーは兄に逆らい、密かにインディアンの女性たちと医療技術を交換するが、当時の女性の身分は低く、結局、兄に売られた形で、軽蔑している相手との結婚を余儀なくされる。サリーの娘レッド・ベスは賢い女性として皆に尊敬され、あるいは恐れられていたが、彼女が精一杯の反抗として遺言した自分の奴隷を解放するという遺志は男たちが定めた法律によって邪魔され、実行されることはない。この物語の中心的な位置を占め、自らの手を神様の贈り物と呼んだジェネットは、夫や周囲の強い反対にあって外科技術を施すことを諦めざるを得ない。
 しかし、憎しみあっていた2家の血がふたたび交わり、サリーとルーカスの血をひく女性が、先祖たちのすべてを身のうちに蓄え、人々の癒しを自分の使命であるとしたとき、それを隠しつづけてきたために子孫を苦しめてきたルーカスの罪が洗い流される。ルーカスの外科技術とサリーの調薬技術、ジェネットの力強さ、そして一族の女たちが忘れることのなかった、人は肌の色や生まれた国などで身分が違うのはおかしいという感覚。物語のすべてが最後のモリーの姿に収斂していく様は見事であるとしかいいようがない。
 上下二段組、623ページ。読み始めるのには勇気がいるが、読み始めたら長さが苦になることはない。ぜひ手にとって読んでいただきたい一冊。


 追記
 アメリカに限らず海外の本にはよくあることなのだが、この本でも謝辞が図書館、文献係、司書にも捧げられている。作家にこのように優れた作品を書かせることのできる図書館というものの価値を改めて考えさせられる謝辞にも注目。



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