「ドロレス! ドロレス・クレイボーン!」彼女はそう声をかけてきた。
 そのときは気がつかなかったんだけど、彼女はあたしを結婚前の名前で呼んだんだよ。あの日の朝、ジョンはまだ生きてピンピンしていたのにね。
           
「ドロレス・クレイボーン」 スティーヴン・キング(矢野浩三郎訳) 文春文庫

 これは、ドロレス・クレイボーンがある日、警察署にやってきて語った供述書――物語である。ドロレスには現在、雇い主であるヴェラ・ドノヴァン殺害の容疑がかかっていて、彼女はそれについても、なにもかもについても真実を語る、といってやってきたのだ。そして語り始めた彼女の話は、もうひとつの殺人から始まる。
「では、まずこのことから――29年前、ここにいるビセット署長が小学校の一年生で、写真の裏についた糊まで嘗めるくらい食い意地が張っていたころ、あたしゃ亭主のジョー・セント・ジョージを殺したんだよ」
 酒飲みで怠け者で暴力をふるう夫。家計を支えるために、我儘な暴君であるヴェラ・ドノヴァンのところに家政婦として働きに行っていたドロレス。どうして彼女は夫に耐えられなくなり、殺人を決意するようになったのか、一方でヴェラとの間にどんな奇妙なつながりが出来たのか――がドロレス自身の言葉で綴られていく。夫を亡くし、ふたりの子どもとも諍いをおこし、以来、たったひとりで島に暮らすヴェラ。綿ぼこりのお化けに怯え、老いてからはドロレスを出し抜いてベッドを糞尿まみれにして困らせることを楽しみにしているような意地悪女。けれど、四十年以上もともに過ごした女性たちには、憎しみやいたわりや、そんな感情を越えた奇妙なつながりがあるのだ。そのことが物語のはしばしから見えてきて、この小説をいっそうリアルに見せている。ドロレスの語りで綴られているために、読みにくいと感じられる人もいるかもしれないのだが、そんなことは決してない。筋立てとしては単純かもしれないが、心理的なものは深いので、ぜひ手にしてもらいたい。
 ――さて。この小説は、わたしがついうっかり間違えて手にとることになってしまった「ジェラルドのゲーム」とは不思議な関係にある。ドロレスが「ジェラルドのゲーム」の主人公ジェシーを幻覚として見、ジェシーがドロレスを幻覚として見る、そんなシーンがはさまっているのだ。メイン州での皆既日食が起こした不可思議な出来事。が、それを知りたいために「ジェラルドのゲーム」を読む必要は、あんまりない、とは思う。



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