「死ぬ前にドライブさせてよ」
「わかったよ」
「お嫁さんをもらっても、帽子は買ってやらないでね」
「買うものか」
                
「帽子」 吉村昭  中公文庫

 児童遊戯具の変遷を扱った書物を中心に、執筆活動をしながらほぼ自給自足でつつましやかに生活する久岡。三年前、訪れてきた少女信子がそのまま居つくことになって結婚。だが、十ヶ月前、ふとしたことがきっかけで信子が癌に冒されていることが発覚する。若さゆえに進行が早く、病院でも治療の方法がないとのことで、本人の希望で帰宅した信子。そのとき、ふと信号でとまった車の中から美しい色彩の見える店を見上げ、信子が呟くのだ。
「ここを通る度に、あの店を見上げていたの。でも、帽子をかぶったことがないし、階段をのぼってゆく勇気がなかったわ」
 その翌日から、その店の階段を登り、久岡は妻のために帽子を買い求めることとなった。
 この世から去ってゆく妻のために、さまざまな形と色の帽子を探す久岡。信子は買って帰ったどの帽子も気に入らず、二、三日たつと飽いてしまうからだ。痩せこけた顔に色彩の華やかな帽子は、いっそう無残だ。自分の顔を鏡では見たくないという信子に、それでも久岡は帽子を買ってやる。自分の死を認めている信子は、もし自分が死んだら新しい妻を迎えてもよい、けれど帽子は買ってやらないでという……
 短編集。
 せつない感情が、たんたんとした筆で描かれた、実に端正な小説ばかりである。
 離婚の決まった朝、最後に一度ふたりで朝食を、という妻との朝食を控え、これまでのことを思い出しながら朝湯を使う「朝食」。朝の、光にあふれながらもどこか身体が起ききっていなくて空々しい感覚が伝わってくる。
 日常をすっと斜めに切り裂いたような短篇が光っている。


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