彼は鋭さのひそんだ冷ややかな眼でわたしの顔を見守った。わたしは彼を怒らせたのを感じた。それ以上に、彼を完璧に傷つけたのを感じた。
             
「挽歌」 原田康子 新潮文庫

 「わたし」、兵藤怜子は夢を食べる女の子だ。蓮っ葉な口をきき、現実よりも空想を楽しむ。が、その空想は決してメルヘンチックなものではない。ときには他人を、そして怜子自身をも傷つけるものであることもある。
 ある日、偶然の出会いによって、怜子は年上の建築家桂木と巡りあう。彼の落ちつきと幸福そうな家庭に腹立たしさを感じた怜子だが、しかし、しばらくして、それが自分の勘違いであったこと知る。桂木夫人と歳若い男との密会を目撃してしまったのだ。自分がなにを欲しているのかさえわからぬままに、桂木と、その家庭とに接近していく怜子。桂木を愛しているから、桂木夫人を蔑み、傷つけたいのだと思う一方で、怜子は彼女の懶い美しさに惹かれざるを得ない。桂木の真剣な愛のことばを拒み、彼の出張中に桂木家に出入りし、単純な女学生を演じて桂木夫人に甘えかかりながら、怜子の心の中には癒されようのない苛立ちと悲しみとが降り積もっていく。
 夢を食べていた少女が、ふと我に返ったときに見た残酷な現実。昭和31年に発行され、驚異的なベストセラーとなった作品だが、ここに描かれている怜子像はたしかにいまに通じるものがある。おそらくは決して色あせることなく、これからも読みつがれていく作品となるだろう。あまのじゃくな言葉と、発作的な行動とで周囲を翻弄しながら、誰よりも深く傷つき悩む怜子の姿。この作品の魅力のすべてがこの怜子にあるといって過言ではない。



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