ここからみんなでマリーエンバートに行ったのは、つい去年の夏だったわね。そうしてこれから、これからわたしたちはどこへ行くのでしょう?
          
   「アウステルリッツ」 W・G・ゼーバルト(鈴木仁子訳) 白水社

 1967年、イギリスからベルギーへの旅を繰り返していた「私」は、ある日、アントワープ中央駅の待合室で、彼と会った。アウステルリッツ。時の流れから外れてしまったかのように、その後幾度の出会いの中でもつねに少年めいて見えた彼は、その日、リュックサックの中からカメラを出し、建物のあちこちを熱心に撮影しては、メモやスケッチを取っているのだった。建築史に関して驚くべき博学を見せる彼の話は興味深く、しかも不必要な前提を必要としない点でも他の人々とは異なっていた。しかし、「私」とアウステルリッツはその後しばらく交流は持ったものの、特に大きな理由もなく音信不通となった。再会は1996年、奇妙な偶然が重なったためである。そしてそのとき、アウステルリッツはそれまで口を閉ざしていた、彼自身の人生について語り始めた――
 ほぼ全編に渡り、「〜とアウステルリッツは語った」という調子で語られる。頻出するその一文は煩わしくもあるが、一方で、ここでいま読んでいるできごとが、誰かの身に起きたこと、既に終わってしまったこととして「語」られているのだということを思い出させる役目を果たしている。
 建築や歴史、精神のありようや人生についての考察。ときにはとりとめもないほど広がりと深みを見せる物語の中から浮かび上がってくるのは、第二次世界大戦中のプラハで、崩壊せざるを得なかったユダヤ人一家の姿である。狂気が人の心だけでなく、世の中そのものにあったそんな時代に、幼くしてただ一人、故郷も言葉も名前すら奪われてイギリスに渡った少年が、長じてのち、アウステルリッツという本名を取り戻し、過去を取り戻す旅をするのだ。彼の目に、現在だけでなく過去の姿が重なり合っても不思議はない。だが一方で、その旅が成功裡に終わったとは……到底いえない、「旅の途中」の姿が語られているのも事実。失ったもの、失わされたものは、決して完全な姿で取り戻すことはできないのである。
 Austerlitzというタイトルを見たとき、 Auschwitzと似ていると感じていたのだが、訳者あとがきによれば、作者ゼーバルトもインタビューの中でそのようなことに言及しているらしい。アウステルリッツ一家の運命を考えれば、それもしかりである。
 ほとんど段落を変えずに続けられ、しかも先に述べたように「〜とアウステルリッツは語った」が煩わしく感じられるかもしれないが……それでも、それさえもが作者の意図したものだと思って読んでもらいたい。オススメ。



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