二つの言葉が、身辺にさまよっていた。水底の深みの藻を掻きゆらす、上からでは見えない水のうねりにそれは似ていた。
             
 「阿修羅花伝」 赤江瀑(「虚空のランチ」所収) 講談社

 能楽「野宮」の舞台の前に、家元春睦と雪政の主従が野の宮を訪れ、そこで不思議な雰囲気の女とすれ違う。春睦は知らない女だという――だが、雪政にはこだわらなければならない理由があった。なんとなれば、彼女の奉納した札には「孫次郎調伏」と。「孫次郎」は春睦がつける能面である。ならばこれは、春睦を呪うものではないのか。もしそれだけならば穏やかに日はすぎていったろう。だが、面打ち師の吉崎が持ってきた「孫次郎」面が、雪政の不安をかきたてた。そこには、春睦の存在、春睦のひとことによって己のすべてを投げ打って孫次郎作りに打ち込む一人の青年の姿があったのだ。
 赤江瀑傑作短編集。解説を読むまで気づかなかったが、赤江瀑という作家はたしかに新刊でしかも文庫本では手に入れがたい作家である。ゆえに実はあまり若い人に知られていないのだ――という。ほんとですか? もったいない! わたし、おそらく赤江作品はほとんどすべて読んでおります。アンソロジーで編みなおされたのも、その前のも……この美しさ、この妖艶さ、この……うまくいえません、幻想的な雰囲気。とにかく、この短編集はそういうわけで、選りすぐりの短編をまとめてしかもノベルス本のかたちで手に取りやすくした、と出版社も一押しの作品集である。未読の人、読みなさい(命令/笑)。
 花に、蛍に、淫蕩に狂う少年。つねに身近にあって呼びかけてくる死。愛するがゆえに憎み、憎むがゆえに愛する複雑に織り込まれた人間模様。それが短い枚数の中にぴたりとおさまり、決して物足りなさを感じさせることなく存在する。これぞ文体、これぞ小説、と解説で絶賛されているとおりである。系統的には……そう、皆川博子や連城三紀彦を好む人々ならば、絶対に大丈夫だと思っている。解説では若者に、十代、二十代の読者に読んでもらいたいとも書いてあるが、年齢を問わず。
 とにかく、絶対のオススメである。繰り返す。
 読みなさい。



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