大事なことだ。誰もが懸命なのだ。誰もが必死なのに、どこかで何かがくい違い、なにかが短絡し、何かが過剰になって、そして皆傷つけ合っている。
       
 「A」 森達也 角川文庫

 どれくらいの人が、あのオウム報道をおぼえているだろうか。地下鉄サリン事件の前、オウムは物珍しい新興宗教のひとつとしてマスコミを賑わせていた。TV番組に引っ張りだこだった、まるでアイドルのような扱いをされていた彼らのことを、おぼえている人はどれほどだろう。地下鉄サリン事件がすべてを変え、坂本弁護士一家殺害の事実がそれに輪をかけた。もてはやすように追いかけていたマスコミが、信者を追いつめる側にまわり、撮影の仕方いかんでは報道されないことさえもあったのだ――と、この本は教えてくれる。だが、それは実際、完全な一視聴者としてTVの前に座っていたわれわれにもわかっていたことだ。
 オウム報道の最中、信者の傍で常にビデオカメラをまわしている男性に、実は当時から気づいていた。信者のひとりなのだろうかと思っていた。なぜなら、彼のカメラは追いかける報道陣に、信者を罵る一般の人々にむけられることが多かったからだ。思えば、それが、森達也だったのだろう。
 殺人集団だといい、気味の悪い宗教集団だという。そういうレッテルを貼ることで、オウムという記号が出来あがる。だが、実際の彼らはどうだったのか。オウムの内部と世間という外部、その二つをつなぐために存在する広報部長という立場にある荒木浩。翻訳しきれないことばを内包して苦しむ彼を中心に、森の追ったものはなんだったのか。それは思考を停止させたメディア、世間、日本人、そういったものではなかったか、と思う。
 これは決してオウムを擁護した本ではなく、あるひとつの宗教を喧伝するために書かれたものではない。あるひとりの男が、みずからの仕事に真摯に向かいあった記録であるとも考えられる。マスメディアの世界に身を置きながら、これまでの手法をすべて打ち壊したところに自分の番組をつくり上げようとする熱意。オウムを追いながら、いつしか自分を追い求めていることに気づく人間としての誠実さ。
 だが、客観的なドキュメンタリーなどというものは存在しない。そこには必ず、撮り手、書き手の主観が入るものなのだ。オウム事件を別視点から追ったものも読んでみよう。それがおそらく、よりいっそうこの本を理解することにつながる。そう思った。



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